鎌倉時代中期、元(モンゴル)が2度にわたり日本に攻めてきた事件。
「元寇」について今回は紐解いていこうと思います。
元寇の始まり
元寇は、「蒙古襲来」「文永・弘安の役」ともいいます。
きっかけとなったのは、当時ものすごい勢いで各地を征服していた蒙古の皇帝フビライによるものでした。
数々の侵攻により高句麗を手に入れたフビライは、日本にも侵攻すべく国書をおくってきたのです。
『東大寺尊勝院文書』によると、
上天のけん命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。
……高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇し、開国以来、亦時として
中国に通ぜり。朕が躬に至りては、一条の使を以て和好を通ずること無し。尚ほ王の国これを知ること未だ審ならざるを恐る。
故に特に使を遣はし、書を持して朕が志を布告せしむ。
……兵を用ふるに至りては、夫れたれか好む所ならん。王其れこれを図れ。
といったもので、一番は国交を求めるものだったのですが、『兵を用ふるに至りては、夫れたれか好む所ならん』との文章から読み取れるように、実際は
「断ったら襲撃するかもよ」
というニュアンスが含まれていたのです。
こういった文書を受け取った幕府の反応としては、
全て拒否!
ということでした。その時の執権は北条時宗であり、国内の政治を整えつつ、蒙古側からの要求を拒否し続けたのです。
文永の役と弘安の役
そしてついに蒙古は動き始めました。
拒否を続ける日本勢に対して、攻撃態勢を見せたのです。
多くの軍勢を引き連れて、対馬、壱岐を経て北九州博多湾に上陸しました。
その1回目が1274年(文永11年)におこった「文永の役」でした。
文永の役
日本軍にとって一番びっくりしたであろうこと。それが「戦闘方法」の違いでした。
何よりも驚いたことは
・集団戦法
・てつはうの使用
・毒矢の使用
日本は一対一のいわゆる一騎打ちが主流であったので、まさか一斉に軍が押し寄せてくるとは夢にも思えわなかったでしょう。
「やあやあ我こそは、どこどこ村の誰々であり……」
そんな風に名乗っている間にやられてしまいます。
蒙古軍の方が驚きだったかもしれません。
他にも数万人による矢の雨あられや毒矢の使用。鉄砲の使用など、見たことのない方法で攻めてくるではありませんか。
軽い鎧で馬を乗りこなし、力強く攻めてくる蒙古軍。
力の違いにまいるなか、その夜船に引き揚げた蒙古軍は、暴風によって総退却する事態となったのです。
弘安の役
その後次の元寇に備えるべく、幕府は西国の守護に総動員を発令。
沿岸に石、砂、土など約20キロに渡って、防塁を敷き詰める指示をだしたのです。
また九州の御家人たちにも異国警固番役・鎮西探題を設置するなど、とにかく再来襲に備えた対策が取られました。
しかしこの対策は御家人たちにとても思い負担となりました。
人手不足でもあったので、御家人以外の武士の参加まで求められたのです。
もちろん手柄をたてたものには恩賞を与えると、約束をしていたようですが…
非常時には御家人以外の武士も駆り出されていたのです。
そして2度目の来襲となった1281年(弘安4年)。頑張った防塁と再びの暴風により、何とか日本は救われたのです。
御家人への恩賞問題
2度の来襲ののち3度目もあるのではないかと予想され、再び防備を固め備えたものの、それ以後蒙古からの来襲はありませんでした。
そしてなにより、この蒙古襲来によってダメージをうけたのは、恩賞の問題でした。
なんせこれだけの働きをしたのですから、もらうものはもらっておかないと!と言う事だったのですが、この戦いは侵略を逃れるために必死で防ぐだけのもの。
経済的にプラスになるものは何も発生していないのです。
それどころか人や設備投資に資金がかかったっため、恩賞を全員に与えられるほどの、経済状況では全くありませんでした。
すぐに払えるものはなかったので、この戦いから5年ほどたってから、ようやくの給付開始となったのです。
それでも御家人に満足のいくほどのものではなかったので、本領を失ったり、農民にあたるものもでてきたりと、幕府も御家人も経済的に困窮していくこととなったのです。
そして経済的基盤が崩れることによって、幕府の滅亡を早めるきっかけとなってしまいました。
まとめ
このようにして蒙古軍による新しい戦法によって驚かされた日本軍でしたが、2度暴風によって救われるという運の良さにより、なんとか侵略を防ぐことができました。
その一方で経済的ダメージは回復することはできず、御家人や農民にとっても苦しい展開となり、徳政令での回復を見込むものの、失敗に終わったのです。