時は江戸時代中期に入った元禄年間(1688年〜1704年)。
5代将軍徳川綱吉の治世であり、幕藩体制もあらかた落ち着いていた、安定期でした。
その時代背景としては、これまで武力行使でおこなっていた武断政治とは異なり、4代将軍家綱の頃に築いた、儒教的徳治主義でおこなう文治政治を引き継いでいました。
この辺りの時代の初期と後期ではどちらかというと西欧文化が主であったのですが、この元禄文化は、ちょうどその中間の時代にあたる、独自の文化が発展した時代にあたります。
それでは鎖国下の中で、人々はどのような暮らしをしていたのでしょうか。
元禄時代の特徴
元禄文化の最大の特徴は、寛永年間で発展した、上流階級や支配者が主だって栄えた文化とは異なり、新興の商人たちによって担われた町人文化でありました。
この時代のポイントとしては、
などが挙げられます。
文治政治
4代将軍家綱〜7代将軍家継の治世を文治政治と言います。
この元禄年間の5代将軍綱吉の時代は「天和の治」と言われており、
「天和の武家諸法度」の発布や、とても有名で徹底した動物愛護令、「生類憐れみの令」を出したことでも知られています。
人材登用の面では、柳沢吉保らを中心とした側用人政治をおこなっていたのですが、財政危機もあり、初めて貨幣が改鋳されることになったのです。
勘定奉行の荻原重秀による貨幣改鋳、それが元禄金銀でした。
貨幣が改めて見直されることにより、貨幣経済の発達が見られ、全国的な商品流通が盛んとなってきたのです。
そしてその中心地が大坂や京都であり、元禄文化はこの地を拠点として展開されることになります。
国学の芽生え
また、江戸時代に儒学の最盛期を迎えます。
朱子学をはじめとした学問の発達で、農学・暦学・和算など、新しい教養が発展しました。
特にこの朱子学は御用学問として存在し、正式な幕府の官学として採用されていたのです。
社会の秩序や個人道徳を説いた朱子学。
新しい考え方や生活に関わる実用的な学問は、庶民の努力や研究が成されることで、飛躍的に実学として、発展していったのです。
また、徳川光圀による「大日本史」、新井白石の「読史余論」
など、歴史書の編纂も社会の変動を著した史料として、徳川の世に至るまでの過程が描かれています。
産業の発達
さらにこの頃、産業の面でも進歩があり、肥料や農具の発達で生産能力が格段にアップしていました。
それに加えて貨幣経済も進展を見せ、都市の生活も少しずつ向上していったのです。
生産面、流通が活発になり、新興町人の進出によって、町人文化が発展していきました。それが、町人を中心とした文化、「元禄文化」として花開いていくことになったのです。
代表的な作品と人物
①井原西鶴
作家として民衆文学を発展させたのがこの井原西鶴でした。
井原西鶴は「好色一代男」を始めとした浮世草子作者で、好色物以外にも、
「日本永代蔵」などの町人物、「武道伝来期」といった武家物など、あらゆるジャンルの文学作品を残しています。
②近松門左衛門
元々武士身分であった近松門左衛門は、「曽根崎心中」「国姓爺合戦」など、数々の作品を残していて、浄瑠璃・歌舞伎の世界に大きな影響を与えた人物として知られています。
また、歌舞伎役者の坂田藤十郎などと組んで、歌舞伎の脚本も手掛けたりと芸能界に足跡を残しました。
③松尾芭蕉
紀行文である「奥の細道」で有名な松尾芭蕉。元々伊賀上野の藤堂藩士でありながら、武士身分を捨てて、俳人としての人生を歩みました。
「わび」「さび」「しおり」「細み」など独自の蕉風(ショウフウ)を生み出し、俳諧を確立。
そして、この井原西鶴・近松門左衛門・松尾芭蕉の3人は、元禄三大文学者とも言われています。
④坂田藤十郎
坂田藤十郎や市川團十郎など名優が演じた歌舞伎。現代においても演目や名を引き継ぎつつ残る芸術ですね。
庶民の間での観劇の一層広まったのが元禄期でした。
⑤尾形光琳
華麗な装飾画である「燕子花図屏風」「紅白梅図屏風」。俵屋宗達の手法を受け継いで描かれた作品の数々は華麗で豪快な装飾画風として大成されました。
⑥菱川師宣
浮世絵作品として「見返り美人図」などで知られている菱川師宣。肉筆画から黒摺版画の開発で、浮世絵を大衆化したことがとても大きく、劇場や遊里などで用いられたのが特徴。
工芸
町人による町人の文化。これまで挙げてきた作品の数々は、この時代に生きた人々の生活や道徳意識に反映されたものが多かったのが特徴で、工芸面でも華やかさや洗練されたものが多く出現しました。
京焼や有田焼など、陶器の基礎となったものの製作や、染色や西陣機業の発展により「元禄小袖」といった、町方の女性に流行した小袖なども流行したのです。
元禄期の庶民の生活
こうして多くの町人文化の発展とともに、人々のライフスタイルも大きく変わってきました。 人々が遅くまで仕事や遊びに出るようになり、食事面でも、朝夕2回だったものが朝昼晩の3回となり、白米が常食となってきたのです。
まさに現代のスタイルですね。
そして、「葵祭」など年中行事の復興や「祇園祭」「山王祭」とともに、天下の三大祭りと呼ばれるようになったのもこのタイミングでありました。
こうして庶民に根付き始めた元禄文化は、やがて地方の農村まで広がりを見せることとなるのです。