「島原の乱」といえばキリシタンの農民たちが起こした一揆で有名だよね!
天草四郎が中心となって起こした、歴史史上長くて大規模な一揆!
どんな一揆であったのか、一緒に見てみよう!
島原の乱とは
島原の乱は、1637年〜1638年天草四郎を大将とした、江戸時代に起こった百姓一揆です。
主にキリシタンの農民らが一丸となって起こしたものだったので、宗教一揆の部類であると思います。
一揆についてはこちらの記事でも紹介していますが、その中でも1年もかけて幕府と激しく戦った、宗教がらみの一揆はなかったでしょう。
なぜ島原の乱が起こったのか
まず第一に、島原領主であった松倉勝家が年貢を徴収するにあたり、農民らに重税をかけ、納められなかった場合過酷な刑罰を下したことが、きっかけとなりました。そしてこの頃凶作続きでもあったため、余計に人々を苦しめました。
その時代背景として、1612年キリシタンの信仰を禁じる「禁教令」も同時に発令。キリスト教に対する弾圧が全国的に行われたのです。
鎖国の世の中
はじめの鎖国令は、1633年のことでした。その内容は
•奉書船以外の船の行き来を禁止すること
•5年以上外国に居住した場合、帰国を禁止
•中国船は長崎のみ入港を認める。
このような決まり事がありました。
さらに1636年になると、長崎の出島にポルトガル人を移住させ、日本人と共に住むのを禁止しました。
キリスト教徒をこれ以上増やさないために、徹底的に交流を禁じたのです。
その頃には、キリシタンは70万人を超えていたというのですから、かなりの人数であったことに間違いはありませんでした。
籠城戦による攻防
当時まだ16歳という若さで、大将として3万8000人もの農民を率いた天草四郎。
元々有馬氏の居城であった原城跡に立て籠り、そこを拠点に幕府軍と戦いを繰り広げました。
あまりにも戦いが長引き、食糧や弾薬が底を尽きてくる中、幕府軍は鎮圧のため12万人を動員。
時の老中松平信綱はあらゆる手法で鎮圧しにかかります。
兵糧攻めやオランダ船に砲撃を依頼してまでの攻撃。40万両という大金と数千人もの兵士を失い、半年にも及ぶ攻防は、幕府側の勝利となり決着がついたのです。
これ以後、禁教政策は一層厳しいものとなり、キリシタン弾圧も強化されることとなります。
そして1639年ポルトガルとの通商も断ち、いよいよ鎖国となりました。
まとめ
かなり大規模で、ただの農民一揆とは考えられないくらいのスケールの大きさでした。
これまでの一揆と同じくして、年貢取り立ての厳しさや刑罰、領主に対しての不満など、理由はさほど変わらないかとは思いますが、
そこに宗教的な意味合いが加わったため、これだけ激しい争いとなったのでしょう。
キリシタンという、同じ価値観のもと一致団結した宗教一揆。
天草四郎はこの乱で戦死してしまったものの、のちに与える影響はかなり大きなものとなったのです。