平氏と源氏。言葉はよく聞きますよね。武士で、平のなんとか~源のなんとか~人の名前として印象に残っていると思います。
そもそも何をして、どういう争いをしたのか。
検証していきたいと思います。
平氏・源氏とは
そもそも平氏、源氏ともに、天皇家にゆかりのある一族であり、由緒ある家系でありました。それぞれ中央や地方で活躍していたのですが、武士団の形成により、事態は変わります。
武士団の形成
武士団という名前だけあって、戦闘のスペシャリストのような感じに思えますが、そもそもは農業を生業とする在地領主でした。
地方の治安の乱れなどで、武装化し自衛武装集団として組織化。それがどんどん大きくなってきて、地方の武士団は大武士団として結集することとなりました。
その武士のトップが桓武平氏・清和源氏であり、
この武士団の棟梁としてどんどん力をつけていくのでした。
朝廷による対策
こうした大武士団の形成により、数々の武士団同士の争いが増えていきました。小さな争いは、次第に大きなものとなっていき、各地で抗争が絶えない状況に陥ってきたのです。
そこで朝廷側は、有力な武士たちを直接中央に関わることができる仕事、国司として、各地方をおさめさせることにしました。
こうして東国は源氏に。西国は平氏に任せることにより、2大派閥として力を持つようになりました。
平氏政権
平氏は桓武天皇の流れをもつ家柄であったにもかかわらず、藤原政権化では活躍する場がありませんでした。
そんな中、能力もあり、保元・平治の乱で功績を残した平氏、平清盛にスポットが当たったのです。
保元の乱・平治の乱
1156年鳥羽上皇が没し、その後継者に誰をたてるかで、問題が起こりました。この時起こったのが保元の乱でした。
崇徳上皇vs後白河上皇の抗争です。この時後白河上皇側についたのは藤原勢プラス源氏と平氏それぞれの武士団でした。
勝利したのは後白河上皇側でしたが、その3年後また新たな抗争、平治の乱が起きてしまいます。
1159年平治の乱は、
藤原一族と平清盛vs藤原一族と源義朝
それぞれが藤原一族と組んで争いましたが、才覚のあった平清盛が勝利し、義朝は処刑され、その子の頼朝は伊豆に流されてしまいました。
後々の事を思うと、ここで頼朝を処刑せず流罪にしたことによって、時代が一変するとは、清盛は思ってなかったのかもしれませんね。
武家政権の樹立
この保元の乱・平治の乱で功績を挙げた平清盛は、1167年太政大臣となって政権を握ります。
歴史上、武士で太政大臣となる人は数える程しかおらず、清盛はその最初でした。とても珍しい出来事だったのです。
さらには娘の生んだ子を安徳天皇としてたて、その外祖父として政治を操ることとなったのです。安徳天皇はなんとまだ3歳でした。完全に名前だけの天皇です。
平清盛が実権を握り、最初の武家政権として、一族の居館がある京都の六波羅にて樹立しました。六波羅政権ともいいます。
平清盛の政策
平清盛が行った政策の主なものは日宋貿易・地頭の設置などです。
経済的基盤を作るためにも貿易は欠かせないこともあり、大輪田泊(現在の神戸港)を改修し、貿易を積極的に行いました。
のち公的な存在となりますが、寄進地形荘園の荘官の一つとして地頭を置きました。
手持ちの荘園もどんどん増やしていき、気づけば日本の半数くらいを知行国として支配していたのです。
さらには、独裁的な政治の振る舞いに、反平氏軍の弾圧なども各地で増えてきました。
こうなってくると、もちろん次に出てくるのが、平氏を打倒しようという声が出てきます。
源氏一族や、後白河法皇側近のものたちが、ついに平氏打倒計画を企み始めたのです。
源平合戦
平氏打倒ということで、ついに源氏と平氏の争いが始まりました。治承・寿永の乱です。
この平氏と源氏の戦いは続き、最後の合戦壇ノ浦の戦いでついに平氏が滅び、源氏政権の世の中へと移行することになるのです。
平氏政権はたった18年。あっという間に終わってしまいました。
源氏政権始まる。鎌倉時代へ
壇ノ浦の戦いで勝利した源氏は、早速新たな政治政策を展開します。
主要機関として、
軍事・警察的な役割を担った侍所。
政務を行う公文所(のちの政所)
訴訟や裁判を行う問注所
守護・地頭の設置
がそれぞれ置かれました。こうして準備の整った1192年、一度島流しとなるも数々の内乱を超え、見事に復活した源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉時代の幕開けとなったのです。
まとめ 平氏と源氏の争い
こうして平氏と源氏は互いに争いつつも、時代を引率していきました。
こうして平氏と源氏の争いは決着し、中世の日本が始まりました。
その後源氏は、あらゆる内乱を繰り返し、結局一族は滅んでゆきます。源氏が滅び、後を継いだ北条家の執権政治により、また時代は展開します。
1333年の幕府の滅亡まで、こうした武士による政治は続いたのでありました。