建武の新政とは
建武の新政とは、1334年(建武元年)〜1336年(建武3年)、大覚寺統である、後醍醐天皇が行った政治のことです。建武の中興とも言います。
鎌倉時代、後嵯峨天皇の譲位後、天皇家が2つの党に分かれて対立しました。それが大覚寺統と持明院統です。
この二つの党は、それぞれが対立したため、交代で皇位につくことを決めました。
このことを両統迭立といいます。
2つの党は交代で即位することになったのですが、対立の波は引かず、やがて後醍醐天皇が即位っする事になりました。
組織の内容
中央
まず中央には
・記録所
・雑訴決断所
・恩賞方
・武者所
が設置されました。
①記録所
「延久の荘園整理令」の時の記録荘園券契所からのもの。
ここでは、中央での政務機関として存在していました。
②雑訴決断所
所領問題の訴訟の裁決機関。割と不手際も多く、不満要素が多かった。
③恩賞方
建武の新政において、武士の論功行賞を扱う事務的な機関。
公正を欠いて不満を招いた。
④武者所
京都の治安維持のために置かれた、軍事・警察機関。
中心人物は、頭人である新田義貞。
地方
一方の地方でも新たな政治体制がとられていました。
・国司、守護の併置
・大内裏の造営
・関所の停止
・鋳貨計画
といった内容で、昔ながらの天皇を中心とした新政をしようとしていたのです。
建武の新政の目的とは
後醍醐天皇の目指した政治とは、天皇が自ら政治を行う、「天皇新政」を目指したというところです。
憧れとしたのは、醍醐天皇・村上天皇が行った「延喜・天暦の治」
でした。
延喜・天暦の治は、班田や荘園対策、勅撰和歌集などの編纂、貨幣の鋳造といったものです。
天皇中心のお手本となるような政治だったのです。
ですので、後醍醐天皇のもとで出される「綸旨」とよばれる命令書は、かなり強い効力をもっていたのです。
たった3年で崩壊へ
天皇新政を目指した後醍醐天皇でしたが、明らかに貴族階級にとっては利益面で有利な体制だったので、武士や農民にとっては不満が多々ありました。
その様子が「二条河原落書」に書かれており、当時の社会混乱の様子が良くわかります。
など気ままで秩序の無い世界であった‥とその混乱ぶりが細かく書かれておりました。
足利尊氏初代将軍に
恩賞の問題によって不満を持つ武士と、皇居造営による課税の増大で不満をつのらせた農民。
社会不安は大きくなってゆき、とうとうそれが足利尊氏が中心となって反旗を翻すことになります。
北条時行による、鎌倉幕府復興をはかった、中先代の乱をきっかけに、尊氏は結集し、勢力を伸ばしていきました。
そしてついに鎌倉幕府を倒すことに成功したのです。
こうして北朝の光明天皇をたてたのちの1338年自らは征夷大将軍となり、京都に室町幕府として、武家政治を復活させる事となったのです。