にじのかけら

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【慶安の御触書】その目的とは。農民はどんな生活をしていたのか

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こんにちはlalaです。

歴史好きがこうじて、基本的な歴史を振り返りつつご紹介しています。

 

今回は「慶安の御触書」についてです。

 

1649年(慶安2年)、幕府による農民に対する規定について出されたもの。それが慶安の御触書です。

ではその内容、目的とは何か。わかりやすく解説してきたいと思います。

 

 

いつどんな目的で発令されたのか

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農民に対する、生活全般に対しての細かい規定で、全32条に及びます。

 

幕府が農民への生活習慣に口出しをした理由、それは主に、年貢の確保と本百姓の没落を防ぎ、徹底的な年貢徴収をするということを目的としていました。

当時の農村では、新田開発や栽培技術の生産能力が向上したことにより、商品経済も発展を見せており、本百姓の自立を目指したのです。

 

農村での自由な作付けを禁じる

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商品開発も進んできた頃でしたが、幕府による農村への支配は、生産物にも及びました。

年貢として確実に受け取るため、五穀(米・麦・粟・豆・きび)以外の作物を生産することを禁じたのです。

それが1643年から始まった、田畑勝手作りの禁です。

 

この頃五穀以外にも様々なものが生産されていていたのですが、規定により、たばこや桑、木綿、菜種などすべての生産が禁じられました。

 

この政策は、なんと1872年(明治5年)の地租改正まで続き、この時にやっとのことで、自由に作付けすることが許されたのです。(田畑勝手作り解禁)

 

本田畑の確保をはかる

 

田畑勝手作りの禁と同じくして、年貢のメインとなる田畑を維持するため、本田畑の売買を禁止しました。田畑の流出を防ぐとともに、本百姓も維持するための規定です。

 

分割相続で田畑が細分化しないよう、分地制限令なども出したのですが、質入れや書入(抵当契約すること)などによって、流出を防ぐことができなかったのです。

 

もちろん売買を行なった本人や買主も、法を破れば重罪となるわけで、幕府側も何回か流地禁止令を出したにもかかわらず、混乱が起こったため、事実上黙認することになってしまったのです。

 

慶安の御触書その内容とは

この御触書には、規定されたこともよくわかるのですが、庶民の普段の生活全般の様子も描かれていました。

・幕府の法令を守らなかったり、旗本、代官のいうことはよく聞き、村の名主や組頭のことは真の親と思うようにせよ

 

・朝は早起きをして草を刈り、昼は田畑の耕作、夜は縄、俵を編んでどんな仕事でも手を抜かないようにせよ

 

酒、茶を買ってはならない。

 

・百姓は分別がなく、先のことも考えないので、常に食物の少ない冬の頃の気持ちを持って、食物を大事にするべき。雑穀(麦、粟、ひえ、菜、大根などを作り、米を多く食べないようにしないといけない

 

・夫婦ともに稼ぐようにせよ。見てくれの良い女房でも、夫をないがしろにし茶のみ話が大好きで、社寺への参詣や行楽を好む女房は離婚せよ

 

・少しは商売の心構えをもって財産を増やすようにせよ

 

たばこを飲んではならない。食の足しにもならず、時間も代金も入り、火の用心にも悪い。損になる。

 

年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど気楽なものはない。

 

(出典 教令類纂)

 

といったもので、農民が飲酒や喫煙をしていたこともわかる内容となっていて、幕府がよっぽど年貢の確保と、農民の働き方改革のような意識をもってほしいとお願いをしていたようです。

 

まとめ

このようにして、幕府による徹底した年貢獲得と、その元となる本百姓の確保は生活の規定、見直しをお願いしたことで規制されました。

 

とにかく幕府の財政を確保するためには、まずその基盤となる年貢という収入源を確保することが重要だったのです。

 

実際、江戸期は災害や飢饉、冷害などといった社会情勢もあったので、年貢を安定して獲得するには根本的な対策が必要であったのかもしれません。

 

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