こんにちは、lalaです。
基本的な歴史を簡単にわかりやすく解説しています。
一緒に日本の歴史をおさらいしてみましょう!
さて今回は「田沼意次による政治」です。
田沼政権のポイントは
商業や経済に特化した対策がとられていたのがわかります。
詳しくみていきたいと思います。
田沼意次という人物
10代将軍徳川家治の時、老中として活躍したのがこの田沼意次でした。
意次は紀伊藩の旗本、田沼意行の子として、江戸に生まれました。
始め徳川家重の小姓、大名となり、その後徳川家治の側用人として権力を持ち、老中となりました。
田沼意次の政策
田沼政権の特徴の一つとして、商業統制のための株仲間の公認がありました。
その主なねらいとは
・商人による独占的な専売制を認めて、物価の安定をはかる
・専売制を認める代わりに税を納めさせる
・通貨を一元化し、貨幣形態での流通、収入をはかる
といったものがありました。
専売制に関しては、幕府も自ら生産販売していたという一面があり、銅や真鍮、鉄といったものがその対象となりました。
また長崎貿易では金銀の輸入、俵物の輸出といったりと、貿易面の強化もされていったのです。
株仲間の公認にあたり、運上金、冥加金といった形で商人から税金をとったことで、商人も幕府もうるおうといった形が出来上がったのです。
株仲間は特に大坂とその周辺の地域にたくさん分布し、天明期には127種もの株仲間が出来上がっていました。
こういった政策により、幕府の商業、貨幣経済への強化がされていき、経済の発展は実現してきたかのように思いました。
賄賂の横行
意次は他にも商人資本による印旛沼、手賀沼の干拓も進められました。元々この地は新田の開発を進めるべく実行されたのですが、洪水や、意次在任中に完成できず、失敗に終わったのです。
積極的な経済改革ではあったものの、商人による意次との賄賂の横行が甚だしくなってきたため、もちろん幕府への不信感がつのり、社会は混乱をきたしてきたのです。
この時の様子が『甲子夜話』に書かれており
・大名たちが意次に機嫌を取る様子
・庶民が物価の値上がりに苦しむ様子
・武士の賄賂の贈り方
など、賄賂として何を贈ったら喜ばれるのかなど、公然とそんなことが行われていました。
農村の荒廃と疲労
賄賂が横行していたのと同時に、この頃自然災害や物価の高騰など、庶民を苦しめる社会情勢が続きました。天明の大飢饉です。
1782年の凶作にはじまり、洪水や浅間山の噴火、冷害といったものが拍車をかけ、人口が急激に減少したのです。
そのため、経済の基盤である農村が荒廃してきて、米の値段も上がり、生活に困った農民などによる暴動が続発してきました。
この頃の様子が書かれている『落書』や『宇下人言』では
・物価上昇に迷惑している。米価の高騰が目立つ
・田沼が賄賂を取っていたことに腹が立つ。
・賄賂を贈って出世するこのご時世。
・天明の飢饉で人口が減少している。
・農村がどんどん荒廃していく
などの社会がどんどん混乱していく様子がえがかれていました。
一揆と打ちこわしの続発
この政治の混乱と農村の荒廃で、年貢の軽減などを求める百姓一揆や打ちこわしが頻発するようになったのです。
中でも1787年(天明7年)の天明の打ちこわしは大規模なものとなり、その様子が『蜘蛛の糸巻』に書かれています。
・米の高騰により、誰も米を売るものがいない
・町奉行は鎮圧しない
・家持の町人が竹槍を持つことを許可される
・打ちこわしの暴徒を殺しても届けなくてもいい
といったもので、その規模もさることながら、あちこちで手を焼いていたのもわかります。
田沼政権の終わり
こうして新しい経済政策も光が見えず、農村も疲労困憊し、後ろ盾であった将軍家治も病死。ついに意次も失脚に追い込まれることとなったのです。
商業政策、経済改革など新しい発想で挑んだ田沼政権。
賄賂政治の横行と飢饉などにより、政策としては効果の出ないものとなったのですが、のちに与える貨幣経済、流通の面では大きな前進を見せたのではないでしょうか。
どちらにせよ、後世で田沼意次=賄賂政治。というとんでもない印象を与えた田沼政権。社会に与えた影響は大きかったのです。