にじのかけら

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【荘園制度】どんな風に発展していったのか。簡単にわかりやすく解説!

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荘園とは、古代から中世にかけての土地支配の在り方です。

 

・始め初期荘園として寺社や貴族によって所有される、自懇地系荘園が中心。律令政権下で発展。

・10世紀以降は有力豪族などが寺社などに寄進する、寄進地形荘園が主。

 

形を変えて存在した荘園制度。その流れを、時代を追って一つずつ見て行きましょう!

 

 

口分田の不足

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大化の改新で6歳以上の男女に与えられるようになった口分田

国の繁栄にしたがって、どんどん人口は増えていき、その上耕作人のいなくなった土地の荒廃もあって、良質な口分田が不足してしまうという事態がおこってしまいました。

口分田は6年に一度、戸籍を確認し班田されます。

 

律令制の改革にあわせて、人々が過酷な労役に課されたために、浮浪・逃亡が多発。耕作する人が少なくなってしまったことも大きな一因となったのです。

 

 

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三世一身の法と墾田永年私財法

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そこで墾田されない事によって減りつつある土地を復活させるべく、とられた政策が三世一身の法、そして墾田永年私財法でした。

 

ポイント!

・三世一身の法で新たに溝や池をつくり一から開墾させる。三代目までの所有可能

・墾田永年私財法で開墾したら永久に私有地として、所有してok

 

723年に定められた三世一身の法は、荒れ果てた土地を一から開墾したものに、三世代に渡って土地の所有権を認めるというもの。

 

特に限度量は決まってはいなかったのですが、所有は三世代のみでした。まっさらな土地ではなく、旧開墾地を使った場合は本人のみの所有が許されたのです。

 

土地をイチから開墾するのは、とても手間がかかり大変な作業です。

苦労して開墾しても三世代までしか所有できない上に、期限が過ぎると国に没収されてしまう。

 

そうなってくると、

 

どうせ没収される土地を三世代までしかもてないなら、大変な思いをしてまで開墾‥もういいや‥

 

と、農民の意欲はどんどん薄れていきます。

開墾した土地はまたそのまま荒廃した土地となってしまいます。

 

そこで次にとられた手段が、翌年の墾田永年私財法でした。

 

開墾したら、永遠にあなたのものですよ!没収しませんよ!

と永久にその土地の所有権を認めたのです。

 

ただしこの土地の所有には一定の限度がありました。

限度以上の土地を持っている人は、国に返さなければいけません。

 

しかもその限度とは身分によって決まっていたので、階級が上になるほどたくさんの土地が持てたのです。

そこで、上流階級の人々は、農民や農奴、浮浪人などを使って、沢山の土地を開墾。

自墾地系荘園として、開発を進めるようになったのです。

 

荘園の発生

こうして自墾地系荘園として発展していった土地でしたが、耕作にあたった有力農民・地方豪族たちが、その権利を認められて、田堵と呼ばれる中流耕作民として力をつけてきたのです。

 

田堵の行う経営手段は、自力で土地開発のできる環境を整えて、力のない弱小農民たちを使って墾田させるもの。

つまり墾田するために必要な農具や施設、種子など全て用意した状態で、管理させたのです。

 

田堵はそこからさらに成長していき、自分の名前がついた名田の名主となり、荘園領主に近い存在感を持つことなりました。

 

こうして独自に開発を行った土地でしたが、ここで国司による圧迫が始まります。

 

寄進地形荘園のはじまり

墾田した土地に狙い目をつけてきたのは国司でした。

この土地を公田化しようと圧迫をしはじめたのです。

 

このまま開発を進めても国に持っていかれる‥

 

そういった国司からの介入を逃れるべく、権門勢家にこの土地を差し出して、自分はそこの荘官として土地の支配権を維持しようと考えました。

 

これが寄進地系荘園の始まりです。

 

墾田された土地は、基本税金を納めなくてはいけない輸租田だったので、個人的に持っていてはどんどん国にとられてしまう。

そういったリスクをおさえるため、寄進する事で権力を維持したのです。

 

この税金問題に対し、動きはじめたのが藤原氏を代表とする有力貴族でした。自分たちの保有する荘園に対して、朝廷に税金の免除を要求したのです。

 

そもそも朝廷も、普段から貴族たちに十分な給与を与える事が出来なかったという時代でもあったため、その変わりとして、土地の免除を認めるという一面もあったのです。

 

荘園整理令

このようにして、寄進地系荘園は発展していったのですが、さすがに税金の取れない不輸租田ばかりになってくると、朝廷は財政難になってきます。

 

そこで、政府がとった対応策が「延喜の荘園整理令」でした。

この政策では、新立、または不正の荘園を停止し取り締まるものであったのですが、あまり効果がでず、荘園は増加するばかり。

 

律令国家の経済的な基盤に緩みがでてきたのです。

この後何度か整理令はだしてみるものの、動きは変わらず、とくに藤原家を中心とした中央貴族に集中することになりました。

 

その中でも一番効果が出たのは、後三条天皇が発令した「延久の荘園整理令」でした。

 

荘園の証拠書類を発券させ、その審理を調査。1045年以降の新立荘園と、その前からのものでも由来が分からないものの荘園を停止しました。

これが記録荘園券契所です。この記録書の設置により、摂関家つまり藤原家を中心とした荘園も整理の対象となったのです。

 

このことにより、天皇家は摂関家をも超える権力であることを人々に認識させました。

こうして天皇や院にとって有利な体系となっていき、有力な荘園領主として発展していくことになったのです。

 

 

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まとめ

 

◆荘園の発生・発展◆

・律令制の基礎であった「土地公有制」

 口分田不足により三世一身の法、墾田永年私財法が採用される

・自懇地系荘園の発生。貴族や社寺が農民を使役し、開墾させる。

・田堵による経営と寄進地形荘園。自分の土地を国司らの介入から守るため、権門勢家などに寄進。

・荘園整理令。国が税金をとれなくなったり、荘園増加を防ぐための発令。

 

このようにして、律令国家から摂関政治時代の荘園は変容をとげました。

初期荘園から始まり、どんどん荘園は増えていく傾向にありました。

結局開墾した土地は有力者に集まってしまう。

上手いこと手元に残るように、そして何より朝廷が権力や財政を維持するためには、数々の問題があったようです。

 

そして鎌倉中期以降は、地頭や守護による荘園の侵略がどんどん進みますが、次第に内部崩壊を起こし、豊臣秀吉の太閤検地により、完全に荘園制度は崩壊へと進んだのでした。

 

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