今日は「院政」についてのお話だね!
うん!院政は天皇が上皇、法皇となっておこなった政治のことだよ!どんな政治が行われていたんだろうね。
実際どんな時代背景があったのでしょうか。
一つずつ追っていきましょう!
上皇・法皇とは
「院政」という体制が始まったのは平安時代でした。
天皇が攘夷(後継者に位を譲ること)し、上皇や法皇となって政治を行うことをいいます。
まず上皇というのは、
・太上天皇の略。後継者に地位を譲った天皇のこと。
法皇とは
・太上法皇の略。太上天皇が出家するとこの呼び名になる。
といった意味あいがあります。
院政とは何か
院政とは上皇、もしくは法皇が行う政治のことを言います。
1086年に白河上皇が開始したのがきっかけとなり、19世紀の光格上皇 まで、27人もの上皇が院政をおこなう事となりました。
藤原摂関家の台頭
そもそも平安中期、天皇家よりも高い地位を築いた藤原家。
藤原家の娘を天皇に嫁がせて、その親(外戚)として政治を行っていました。
摂政•関白の座を独占する、いわゆる「摂関政治」ですね。
天皇権の代行や、太政官制の独占など、藤原家にとって、都合の良いように政治がおこなわれたのです。
このとき独占していたのが、藤原北家でした。
藤原摂関家の弱体化
こうして天皇家の外戚となることで、権力を維持していた藤原家だったのですが、ここで思いもよらないことがおきます。
藤原頼通の時、娘を天皇に嫁がせたものの、皇子が生まれなかったのです。そのため、親族ではない後三条天皇が即位し、藤原家の権力が弱まってしまうことになります。
親戚関係が崩れてしまい、政治に口出しのできなくなった藤原家。
ここで後三条天皇は、これを好機として、藤原摂関家を政治から遠ざけるべく、さまざまな対策を打ち出しました。
その一つが「延久の荘園整理令」です。
•まず国にとってメリットのない荘園を整理
•不正に取得した荘園を没収
•私有地化した荘園は国のものとして、税を納めさせる
という対策をとり、これまで藤原家ベースであった政治形態から脱出し、独自の展開を見せることになったのです。
そしてその後は、後三条天皇の子である白河天皇に政権の座をゆだねることにとなります。
白河上皇の院政
白河上皇が院政を始めた理由は、まだ8歳にして天皇となった堀川天皇をサポートするためでした。
後三条天皇の意思を継ぎ、自らが政治の実権をにぎったのです。
1077年には巨大な寺法勝寺を建立し、その近くに院御所たて、そこを拠点として院政を行いました。
こうして、幼くして即位した天皇をおきながらも政治を続け、それ以後鳥羽天皇•崇徳天皇の時まで、43年もの間ずっと上皇として権力を握っていました。
院政はどんな仕組みで行われていたの?
それでは、院政はどのような政治形態であったのでしょうか。
・院政を行う役所は院庁(いんのちょう)といい、そこには院司が配置された。
・上皇の命令文書である院宣を朝廷に送り、上皇が朝廷側に圧力をかけた。
・院庁から出される公文書の一つ院庁下文の発布
・軍事組織の一つとして北面の武士が配置され、独自の院警備が強化された。
特に北面の武士は徐々に力をつけていき、武士の台頭、平氏政権が誕生していくこととなったのです。
まとめ
こうして院政をおこなった上皇を治天の君と言いますが、藤原家を排除する目的ではじまった院政は、平安後期には武家と対立、承久の乱後形式化されました。
この院政期には、のちの平氏や源氏といった武士政権にもあらゆる影響を与えました。天皇として政治をおこないつつも、武士の力が強くなってきたため、天皇が島流しされたり、幽閉されるなどの出来事もありました。
人々も政治も揺らぎつつ、院政期は長く続くこととなったのです。