飛脚といえば、どんな感じを想像するかな?
棒の先に手紙を引っ付けて運ぶ人っていうイメージ!
うんうんとにかく身軽に走っているイメージがあるね!今日は飛脚について学んでいこう!
飛脚の種類
一口に飛脚と言っても色々なスタイルがありました。
①継飛脚
②大名飛脚
③町飛脚
と言ったものがあり、時代背景や目的によって、呼び名もいろいろあります。
そんな飛脚について1つずつみていきたいと思います。
継飛脚とは
まず第一にとても脚が丈夫で早く、スタミナのある人でなければ、到底飛脚という仕事にはむかなかったであろうかと思います。
迅速に運ぶことはもちろんのこと、幕府から頼まれた重要書類なども配達するので、特別に許される権利もいくつかありました。
基本的な仕事としては、幕府で扱う重要書類を運ぶ役割で、京都所司代や大坂城代、老中などのお偉いさんからの依頼で運びました。
1590年から設置された継飛脚は、各宿場で人馬を継ぎ変え、ペースを落とすことなく走り続けたのです。
また、飛脚は昼夜を問わず、一日に何10キロ、多い時で100キロ近くも走り、17世紀末には、東海道を約90時間の早さで走破するという早さでありました。
走るペースを落とさないということは、普段は許されていない夜間の関所や、 大名行列にいちいち足を止めることなく、どんどん先へと進むことが許されるという特権があったのです。
つまり、飛脚に対しての重要度がかなり大きかったといえます。
肩に担いでいる棒の先には、「御用」とかかれた証書。これをもってとにかく身軽に素早く走り抜く格好で移動していました。
大名飛脚とは
大名飛脚は、お偉いさんに頼まれて運ぶ重要書類とはまた異なり、通信のために大名が江戸と国元の間に置いた飛脚のことです。
書簡などの紙もありましたが、金銀や荷物も運び届ける役目も果たしました。
東海道の7里ごとに小屋が置かれたりしていたので、それにちなんで「七里飛脚」ともよばれました。
ただし、無料の配達便ではなく、大名負担のものだったので、費用がかさみ気軽につかえるものではなかったようです。
町飛脚とは
町飛脚は、1663年江戸、大坂、京都の三都の商人が始めました。
三度飛脚・定六・定飛脚とも言い、飛脚問屋が為替業務も担っており、
1000両を超える大金を扱っていたと言います。
江戸では定飛脚問屋、京都では順番飛脚問屋、大坂では三度飛脚問屋といわれ、3つの都市の物流を担ったのです。
まとめ
飛脚はとにかく身軽で走りが早かったようです。
江戸から京都まで60時間から80時間ほどで着いたとなると、相当早かった事がわかります。
今でも宅配便事業がないと、世の中は大変な不便を強いられますよね。
特に近年ネットですぐにポチッと何でも買えちゃう時代。
買い物はパソコン1つでできますが、実際にその商品を運ぶのは運送業者ですから。
今も昔も人が運ぶことは変わらないです。
同じように、何百年も前から物を運んだ飛脚。
体力と脚に自信のあるツワモノ揃いだったことは間違いなかったでしょう。