昔卒業論文で研究した安土城。
あれから20年程たった今、城跡しかなかった安土城に「復元化」計画が持ち上がっています。
城跡しか無い安土城。どのように復元しようとしているのか、その魅力についてまとめてみました。
「復元計画」について
安土城といえば、1576年(天正4年)織田信長が建築を始め、その3年後1579年には天主を完成させて移り住んだお城です。
しかし、本能寺の変直後の1582年6月、信長の居城であった天主などの主郭部分が焼け落ち、廃城となってしまいました。
そんな安土城を復元すべく、現在4つの案が提案されています。
それぞれの欠点としては、
①と②は莫大な建築費用がかかる。
③は観光振興に役立つが、城の実像となると誤解を招きやすい
④は城跡に影響は与えないが、管理が大変になる。機器の更新が必要。
コンクリート造りで再現するとなると、工費は約300億円ほどかかってしまう。
そもそも安土城は、建築当時の設計図がなく、城の全容もはっきりしていない。
など数々の問題点があります。
復元するにあたって、法律上の問題(文化財保護法など)もあるため容易ではありません。
それでも近代城郭の原点であり、信長の居城として存在した安土城。
どんな形で復元されるのか、とても注目されています。
安土城はどこに築かれたか
そもそも安土城とは、「天下布武」を掲げていた織田信長が滋賀県の琵琶湖畔に築いたお城。
美濃・越前・伊勢といった各街道の合流するところであり、京へも近い。琵琶湖の水脈もあり、とても便利良い場所でもあったため、この場所が選ばれたのでしょう。
絢爛豪華!驚くべき安土城の天主
天主といえば、有事に使われるのが通常であるが、信長はこの天主を居城としていました。
驚くべきはこの天主。これまでとは考えられないほど、絢爛豪華であったのです。
天主の上層と下層の建物が一体的ではなく別物で、「入母屋造り」の建物の上に、「物見櫓」を乗せたスタイルとなっています。
天井や柱は朱塗り。地下1階~5階は吹き抜けの空間が作られており、茶座席も持ち合わせていました。
最上階である6階には金色の室内に、狩野永徳の「金碧障壁画」が飾られていて、八角形の望楼には金の瓦が施されていたという。
金ピカ豪華な感じが伝わったでしょうか。
当時の資料は少なく、詳細ははっきりと分からない部分はあるが、当時の様子を記録していた宣教師「ルイス・フロイス」によると、「ヨーロッパにはないもの」として、とても驚くべき造りであったことは間違いないようだ。
大手道
主要道であった「大手道」。山麓の本丸跡に続く道で、道幅は6mと広く、この大手道の両側には、信長の家臣達の屋敷を建てており、安土城正面の守りを固めていた。
この大手道には、サイドに羽柴秀吉、前田利家など信長の家臣たちの屋敷があったとされています。
この大手道を登って黒金門跡を抜けると、安土城の主郭部があり、400年以上のときを経ても崩れていない石垣が、そのままの形で残っています。
穴太衆
穴太衆とは、高度な技術をもちあわせた、「石工職人の集団」で、この安土城でもとても重宝されていました。
安土城は山全体を石垣で積み上げていく「総石垣造り」で構成されていたため、様々な手法で石を使っていました。
安土城の天主台の石垣は9m。そこからさらに32mの高さの天主が築かれていたのです。
安土城独自の石積みの方法として、長方形の石の長短を交互に組み合わせて組んでいく積み方「算木積み」(さんきづみ)という方法をあみだし、強度の強い角を生み出していたのです。
穴太衆の作り出した石は今もしっかりと残っています。
まとめ
天下布武をかかげた織田信長。オリジナリティーが高く、とっても派手な印象のある安土城。
日本で始めて高層天主や高石垣を使った安土城は、現存することもなく、はっきりとした資料も残っていない。しかしさすが信長というべきであろうか、これまでの「城」という概念を覆し、天下を目指す信長の思いがたくさん詰まった城であったことは間違いないだろう。
どのような形に復元されるのか。期待に満ちて仕方がない。