にじのかけら

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【武士の給料】江戸時代、武士はどのくらいの給与をもらっていたのか

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武士のお給料。一言でいうと、

基本的には「お米」「お金」を支給されていました。

武士にも位があったので、もらい方や量はかなり違いましたが、その給与システムについて触れて見たいと思います。

 

 

家禄と足高の制

江戸時代、武士の給料は個人ではなく家格、つまり「家」に支給されるシステムでありました。初めからもらえる、現代で言う基本給「家禄」はあらかじめ決まっていたにもかかわらず、仕事をする上での経費は自腹だったため、出世して上の役職につくことが難しかった。

 

そのため、1723年徳川吉宗の時、役職の標準的な「役高(石高)」を決め、家禄から足りない分を足してくれる「足高の制」ができた。

在職中のみではあったが、家禄からたしてくれたので、今までより高い役職につくことが可能になったのです。

 

武士の給与

 米俵のイラスト

 

武士の給与のもらい方には3パターンあり、

・知行取

・蔵米取

・給金

の方法でもらっていました。

 

知行取

カカシのイラスト

 

給与として与えられた土地である知行地(給地)で、そこからとれた米を年貢として納めさせる方法を「知行取」といった。

主となる武士は、200石以上をもち将軍にお目見えできる旗本などで、年貢の税率は初期では四公六民、享保年間ごろからは五公五民に落ち着いた。

 

四公六民というと、収穫量の40%を租税として領主に収め、60%を農民がもらうという割合。

初期では農民のほうが所得としてもらう量が多かったことがわかります。

 

俸禄制と蔵米取

知行取に対して、知行地を持たない武士に俸禄を支給する制度で、この俸禄を支給される武士の事を蔵米取といいます。これは勘定所に一度収められた米が支給されます。ほとんどの武士は100俵以下で、玄米が現物支給として渡されました。

 

俸禄といっても様々で、禄米・俸禄米・扶持米・切米などがあり、蔵米取の旗本や御家人たちは、春・夏・冬と年3回にわけて切米が支給されていました。この給付高により、武士の家柄や身分が分かるようになっていたのです。

 

扶持米は下級武士に毎月支給されるもので、1人あたりの扶持は5俵くらいとすごく少なかった。

 

給金

江戸の商人のイラスト

 

最後に、給料をお金(銀)としてもらう給金という方法。これは下級武士などに支給される方法で、まともに生活するには非常に苦しいくらいに少ない。

 

さすがにこの給金だけでは生きていくのが大変だったため、傘張りなどの内職をしながら生活していくしかなかったのです。

 

生活費はどうしていたか

 囲炉裏のイラスト

 

衣服や日用品、食べ物などを購入するのに、物々交換ではなく、基本的にお金でやり取りをしていた江戸時代。

給与としてもらった米を換金して、これらを購入するのにあてていた。

 

しかし、江戸時代後期にもなってくると、米の生産量も次第に上がり、米の価値が下がり始めた。そのため、必然的に武士の生活も苦しくなってきたのです。

 

まとめ

このようにして武士たちは、基本米支給→換金などで生活していたのですが、知行取の武士が1万石~100万石であったのに対し、下級武士は月に5俵くらいの給与…

 

現代もそうですが、位によって、だいぶんと差があったことは確かです。

そもそも武家奉公人として、住み込みで働く分には、そこまで生活するのにお金はかからなかったので、少しの給与でもやっていくのは可能でした。

 

同じ武士というくくりでも、生活様式は随分と違っていたようです。

長い長い江戸時代。色々な目線で人々の生活を追っていきたいと思います。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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