江戸時代の庶民の食事はとても質素でした。そもそも台所が狭く、火口も少ない。スペース的にはご飯を炊いたり、汁物を温めたりするくらいで、あれもこれもと食べることもなっかた、ということもあり、ちょうどよかったのかもしれない。
ではこの時代庶民はどんなものを食べて生活していたのでしょうか。
①一汁一菜
②朝夕2食➡朝昼晩3食
③人気のおかず
④外食は?
一つずつ追っていきたいと思います。
「一汁一菜」が基本
基本的には、一汁一菜・もしくは二菜で、米と汁物をベースに副菜としてたくあんや漬物を食べていました。
特に江戸の人は白米を多く食べており、1日に1人当たり4~5合も摂るという食べっぷり。
副菜をご飯のお供にして、たくさんのお米を食べるというスタイルだったのですね。
ご飯を朝に炊き、
朝➡炊き立てのごはん・味噌汁
昼➡冷や飯・おかず
夕➡お茶づけ
ご飯を炊くのは1日1回で、1度炊いたごはんを夜までの分として、分けて食べていました。
食事の内容
①米
元禄以前は雑穀や玄米が主でしたが、それ以後は精米した白米も食べられるようになってきた。
②副菜
漬物が主で、たくあん・梅干し・ぬか漬けなど
③味噌汁
みそもわりと貴重品で、庶民が食べるようになったのは、江戸の中期あたりから。
豆腐は一丁1000円くらいする贅沢品だったので、気軽に味噌汁に入れられる感じではなかった。
④魚介類
月に3回くらい食べることができた。
江戸時代後期、持ち運び可能な七輪が登場してからは、焼き魚などもできるようになりました。煮炊きできることから、鍋ものもするようになり、一人鍋を好んでする人も多くいたようです。
⑤調味料
江戸初期では塩とみそくらいであったが、後期になると、しょうゆ・さとう・みりん・かつおぶしなどが出てきたため、鍋ものや煮物を作るようになった。
まだまだ庶民には貴重な材料がたくさんあったので、メニューとしては同じようなもので質素ではありました。肉類やたまご類もあったが、やはりそれも貴重であったので、食べることができるのは病気をしたときくらいのものでした。
生産技術の向上
雑穀米や玄米から白米が庶民の食卓に登場するようになったのは、享保の改革で米の生産量がupしてきたことによります。
このころ農業が発達して、新田開発も上手くいき、どんどん米の生産量が増えてきた。
精米技術と生産量の増加により、庶民にも白米がいきわたるようになったのです。
しかし江戸の町以外では、まだまだ白米は手に入りにくく、玄米に麦・ひえ・芋・大根などを混ぜた「かて飯」がよく食べられていた。農民も玄米が主流でした。
食事は1日3回に
江戸時代初期はまだまだ1日2回(朝・夕)の食事であったが、元禄年間の間に1日3回の食事に落ち着いてきました。
夜なべをしたり、内職などの仕事や、夜遊びに行く、その習慣の中で、灯りを灯す文化が生まれたのもあり、朝夕だけの食事だけではもたなくなってきたのです。
大体食べる時間は、
朝7時・昼12時・夜19時頃で、現代とほぼ同じだったようですね。
人気のおかず
江戸後期、調味料などの登場により煮炊きする文化が発達。そのため、
きんぴらごぼう・煮豆・切り干し大根の煮物・ひじきの白和えなど、今でも普通に食卓にのぼるおなじみメニューが人気で、よく口にするようになりました。
また、特に女性に人気だったのが、あの甘くて秋に登場するスイーツ。
「焼き芋」が安くて甘くておいしいというだけあって評判だった。
当時そばが1杯16文(約320円)だったのに対し、焼き芋は1本4文(約80円)。
お買い得で購入しやすく、大人気スイーツとなったのです。
また、せんべいやお饅頭といったものも作られていたので、少しづつ食文化が発展して、現代へと近づいてきました。
江戸時代の外食
多種多様な屋台が多く存在していた。江戸の町には一人暮らしの男性も多かったので、
・魚や煮物を売る「煮売り屋」
・そこから発展して「煮売り酒屋」。魚をあてにして酒も飲める店
などがあった。
屋台は多く、蕎麦屋・天ぷら屋・うなぎ・寿司屋など。
ちなみに東京では「そば」が好まれ、京都や大坂では「うどん」が好んで食べられていました。
まとめ
このようにして、江戸時代では質素な食事ではあったが、後期に近づくにつれ、わりと現代に近い食事のスタイルになってきた。
人気のおかずなんかはほぼ今と一緒であったし、焼き芋が人気なのも今と変わらない。
裕福な家でもご飯・味噌汁・つけもの・おかず(魚を少し)といった基本の食事であった。和食の文化というのは今現在も生活に根付いており、日本に合った食事の基盤であったということなんですね。