国風文化は平安時代に発展発達した文化です。
平安時代と言えば、きらびやかで貴族が優雅に過ごしたイメージがありますが、まさにそのような雰囲気のある生活です。その中でも主だったもの
①文学
②宗教
③美術
④生活
にスポットをあてて見ていきたいと思います。
和歌や文字が発達
平安時代はたくさんの和歌が読まれた時代でありました。中でもよく知られているのが、紫式部の「源氏物語」、そのほか同じく仮名遣いで書かれた「竹取物語」在原業平の「伊勢物語」などではないでしょうか。
これらは全て仮名文字で書かれており、この時代を代表する作品となっています。
仮名文字とは、平安初期に、漢字をくずして簡略化した日本文字。つまりひらがなのことで、漢字のことは真名(まな)と表現しました。
かなは女の人がよく使ったことから、女手(おんなで)、女文字ともよばれました。
また、和歌が得意な読み手たちとして、
在原業平
喜撰法師
小野小町
文屋康秀
大友黒主
僧正遍昭
この6人が「六歌仙」とよばれていました。こうしてみてみると、百人一首でよく聞く名前が多いことに気づきますね。
また、905年、醍醐天皇の命により作成された20巻におよぶ「古今和歌集」では、紀貫之・紀友則・凡河内躬恒らによって最初の勅撰和歌集として作られました。
紀貫之といえば、最初のかな日記を書いた貴族の歌人で、「土佐日記」などが有名ですね。これは土佐から京都に帰る際の出来事を、面白く楽しく書いた紀行日記でありました。
宗教の発展と浄土教の流行
この頃の宗教への考え方として「神仏習合」という考え方がありました。神仏は本来同じものとし、神の信仰と仏様の信仰を融合させる、という意味であって、明治時代の「神仏分離令」までこの習わしのもと、神と仏は共存していました。
特に10世紀以後発達した「阿弥陀浄土」への信仰が深く、「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えながら苦しみのない、安楽な世界を夢見て「極楽浄土」を願っていたのです。
京都の藤原頼通の別荘である平等院鳳凰堂などは、この極楽浄土の地として、阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂の役割を果たしていました。
建築と美術
平安貴族の邸宅は「寝殿造」とよばれる広くて優雅な造りの建物でした。
寝殿とよばれる正殿を中心として、その東西と北に対屋(たいのや)を置き、中庭の池に面して釣殿(つりどの)を置いた。
建物自体は白木造・檜皮葺などでした。
美術面では、大和絵・蒔絵などが発達しました。
大和絵は日本的な風物が主に描かれていて、そのほとんどが四季絵となっています。日本画の源流にもなりました。
もうひとつが蒔絵。
蒔絵は漆工芸の一種で、基本的には漆で模様を描き、そこに金銀粉を蒔きつけるという方法。色々な技法が存在しました。
貴族の娯楽
この頃の貴族の娯楽は、唐から伝来した碁、双六、貝合わせや管弦、放鷹(ほうよう)などで楽しみました。
革製の鞠を革靴で蹴り繋いで遊ぶ蹴鞠も、院政期頃から盛んに行われ、蹴鞠道という流派も生まれた。
遊びといえど、教養や武芸の修行なども兼ねて、行われていたようですね。
衣服
最後に服装について。
<男性>
・束帯…公卿の礼服、参朝服。正装。
・衣冠…束帯の略式バージョン。五位以上の平常の参内服
・直衣…公家の通常服
・狩衣…男性の通常服
・水干…庶民男性の実用服
<女性>
・女房装束(十二単)…女官の正装服。12枚とは限らない。平安貴族といえば、これ!という感じがありますね。
・小袖…貴族は下着としてきていたのですが、本来は庶民の衣服として着られていました。この上に女性は短い腰衣をまいていたのです。
まとめ
このようにして、国風文化は日本独自の文化として、日本風に発展していったことが特徴であったように思います。これまでは、どちらかというと外国、唐からの文化が幅広く伝わっていたのですが、遣唐使廃止などによって、日本独特の文化が生まれたのです。
仮名文字の発達と優雅な貴族文化、おしゃれな遊び。日本の基盤である、はんなりとした文化が生まれたのはまさにこの時代であったのですね。