”楽市楽座”何となく聞いたことはあるけど、どんな歴史だったっけ?
織田信長あたりが出した制度かなんかだったっけ?
そうです。有名どころで大規模といえば、織田信長が安土城に出した楽市楽座令。それは
・楽市とは
自由な交易の場の解放。
様々な税金を免除し、それまで独占権のあった商人の特権を廃止すること。
・楽座とは
商業組合、同じ業種の同業者組合を廃止して、自由に商売できるようにすること。
という意味で、この制度を全面に出したことにより、城下町が賑わい、経済活動の発展を促そう!という目的がありました。
ではこの楽市楽座。具体的にどのような政策であったのか、見ていきましょう!
市と座
「市」とはもともと定期市から始まった
市とはもともと定期市として根づいたもので、月に数回、一定のタイミングで開かれていました。
鎌倉時代に入ると、月に3回の三斎市が全国各地で行われ、その後室町時代には月に6回もの六斎市が開かれました。
6回ともなると、週に1回以上のペースなので、結構な回数で開かれていたことになります。
経済、物流が発展して商品も増えてきたので、6回に増えたとしても、市として成り立ったんですね。
「座」商業組合の実態
座とは前述したように、商業組合のことです。
一般的に、本所である寺社に売り上げの一部を献上することで、独占販売権を得るというメリットがありました。
独占販売権を得ることで、価格競争が生まれず、
その商品に対して自由に価格をつけることもできるので、儲けが大きくなります。
その他にも「関銭」免除の権利も与えられていたので、関所もフリーで通り放題でした。
中世の関所は通行料をとる事が大前提でしたので、税金を取る側にとっては、懐に入らないと言うことで、さぞかしつまらない制度だったと思います。
有名な座は京都にあり
大きな座は京都や奈良で発展したものが多いです。
①大山崎油座(おおやまざきあぶらのざ)
京都の大山崎にあり、石清水八幡宮の荏胡麻油(えごまあぶら)の座が有名で大規模なものでした。
灯油として用いられていたということもあり、とても重宝され、畿内東国10ヶ所の独占販売権をもっていました。
仕入れは任せろっと言った感じでしょうか。
②北野神社麹座
北野神社を本所とした酒麹専門の座
③祇園社綿座
祇園社(八坂神社)を本所とする綿座。綿以外にもいくつかあり。
④興福寺絹座
興福寺大乗院を本所とする絹座
など、専門的な座が各地に存在していました。
もちろん後ろ立ては本所である寺社です。
楽市楽座とはどのような政策だったのか
このように市と座は、商人とバック勢力の寺社等が関わりながら、密接に商売されていました。
有力な寺社、領主、武家などの保護により、商人は甘い汁をすっていた訳ですが、これでは日本は前に進めません。
そこで、本格的に「楽市楽座」を打ち出そうと力を入れ始めたのが織田信長だったのです。
それまでに楽市楽座というのはありましたが、信長程にしっかりと大規模に行われてはいませんでした。
具体的な政策とは
まず各地に何十、何百もある、関所を撤廃しました。
理由としては今まで通行料を支払わないと通れなかった関所が、誰でも通れるとなれば、人々の行き交いがとても多くなります。
今まで制限されていた移動が楽になることで、新興商人も増え、新しく人や物が流通するきっかけが与えられたのです。
座の特権が廃止されたので、もちろん座自体も廃止となります。
しかし座に関しては、領主が内密に行っていた「御用商人」とよばれる、特別扱いされた商人や問屋業者がでてきたので、結果的に座の廃止は完璧ではなかったのです。
こうして、城下町の繁栄に向けて、自由に商売できる環境を整えたのです。
宣教師ルイス・フロイスは見た
宣教師ルイス・フロイスの「日本史」の記述の中に、楽市が開かれていた岐阜城下の事が書かれており、当時のその様子を「バビロンの雑踏」と例えていました。
それによると、人口は大体8千人から1万人くらいでとても多く、昼夜問わず大変賑わっていた。と伝えられています。
ルイスフロイスが見た安土城の様子。
まとめ
こうして楽市楽座は城下町の統制を図り、商人や寺社勢力を抑える働きもありました。
実際に関所を解放した事は良かったかもしれませんが、防衛面的にはとても甘くなりました。
自由に行き来できるということは、商人だけではなく、怪しい人も引っかからなくなったということですからね。
思い切った政策で、中世的な制度を変えて行くきっかけとなった楽市楽座。
城下町の賑わいが目にうかぶことは間違いありません。