にじのかけら

歴史大好きなママブログ。精一杯どんなことでも楽しんで生きぬいていこう。

【卑弥呼の謎】卑弥呼のお仕事は何?何をした人なのか。

巫女さんのイラスト

 

前回、卑弥呼のお墓がどこにあったのかという話題に触れましたが、今回はその謎に満ちた卑弥呼のお仕事について触れていこうかと思います。

 

 

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魏志倭人伝とは

和綴じの本のイラスト

卑弥呼の存在を語った「魏志倭人伝」には、3世紀にあったとされる邪馬台国や、その国を治める女王のお話が書かれていました。

 

魏志倭人伝って教科書にもよく出てきた古い歴史書だよね?

そうそう!卑弥呼の時代の資料は少ないから、当時の出来事を知るきっかけとなったんだ

日本で女王と言えば卑弥呼が真っ先に思いつくね

 

 

この魏志倭人伝は中国の歴史書である、「三国志」のなかの「魏書」のことを言います。

正式には「烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条」といい、当時の日本の様子を詳しく伝える歴史書として登場しています。

 

 

邪馬台国の場所

日本地図のイラスト(都道府県ごとに区切り)

魏志倭人伝によると、

郡より話に至るには、海岸に循ひて水行し、韓国を歴て、あるいは南しあるいは東し、(略)邪馬台国に至る

とありますので、出発地はこの「郡」つまり帯方郡(たいほうぐん)のことです。

 

帯方郡は今のソウルであったことがわかっていますから、そこから南やら東やらに進んだところに邪馬台国があると示されているのです。

 

この南やら東やら行くルートというのはいくつかあって、辿り着く場所というのが、近畿地方、もしくは九州地方ということではっきりしていません。

 

そのため、現在も場所の特定ができず、さまざまな議論が行われているということなのですね。

 

この邪馬台国の場所については九州説、畿内説で意見がわかれています。

九州説では、弥生時代の遺跡の中で国内最大級とされる環濠集落が見つかったり、墓の規模や住居、銅剣などから、かなりの有力者が中心となって繁栄していたのではないかとされ、このことから卑弥呼が九州に存在していたのではないかと推測されています。

 

一方の畿内説では、弥生時代から引き続いてそこに大和朝廷が発展したとする考えもあるので、やはり畿内にあったのではないかとする見解もあるということですね。

 

もう少し詳しく書かれていればよかったのですが、こればかりは仕方がないですよね。

 

まだまだ解明するには時間がかかりそうです。

 

卑弥呼の職業は何?

 

そこで気になるのが卑弥呼の職業です。

 

武士でも天皇でも農家でもありません。

 

祈祷師

 

で女王なんです。

 

占いの力を使って国を治めていたといいます。

 

その占いに出ていたのかはわかりませんが、今の中国である魏に遣いを送ったり、魏の使者と交流を深めたりと、外交をしていたというのですから、只者ではありませんよね。周辺の土地をまとめ上げ、外国にまで行ってしまうなんて、普通の祈祷師には務まりません。

 

基本的に祈祷師として部屋の中にいましたから、指示はするものの、行動するのは全て人任せ。

当時ハマっていた「鬼道」という占いに明け暮れます。

 

「鬼道」と聞くとなんだか怪しげなものに聞こえますよね。

 

神や霊と交信し、人々を導いたということですので、この呪術を使って邪馬台国を統率していたということなんです。

 

現在でもそうですが、病気にかかったり、けがをしたり、スポーツなどで成功したいときなどに「神頼み」したくなりますよね。

当時の人々も同様に、目に見えない何か特別なものにすがりたかった気持ちもあったかもしれません。

人々にとって卑弥呼の存在は、とても大きく、スピリチュア的な感情があったのかもしれませんね。

 

女王卑弥呼

 

女王として君臨した卑弥呼には1000人もの女性が仕えており、その中でも直接やりとりできたのは実弟のみでした。日々の食事を運んだり、卑弥呼のお告げを聞くのはその弟だけで、実務的な政治を行なっていたのもその弟だったのです。

1000人という数にも驚きですが、そう考えると、邪馬台国の規模というのはかなり大きめだったのではないかと想定されます。

 

これだけの人が卑弥呼を慕っていたことにも驚きですが、結局誰も卑弥呼に会えないわけですから、本当に実在していたのかと噂になっていたかもしれませんね。

 

むしろその謎に満ちた「ミステリアス卑弥呼」が良かったのかもしれませんが。

 

人に合わない卑弥呼だったので、結婚はせず、子供もいませんでしたので、後継者は若干13歳の壱与(いよ)(台与)が選ばれました。

 

実はその間男性の王が国を収めようとしたのですが、上手くいかず、女性の王が誕生したというわけですね。

 

その後壱与の活躍がどのようなものだったのか、残念ながら記録がなく謎に包まれています。

 

卑弥呼の行った政治

難破船のイラスト

では魏の皇帝に認められた卑弥呼の外交がどのようなものだったのかを見ていきましょう。

 

卑弥呼の外交と言えば、今の中国「魏」との交流が大きかったかと思います。魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に2回使者を送っていたようです。

1回目に送られた使者は難升米(なしめ)という名前の人物で、何回も魏志倭人伝の中に名前が登場しています。この難升米は都である洛陽(らくよう)にとどまっていたようですね。

 

多くの貢物を持って行った難升米ら一行は、魏の王様から

「よくぞ遠くからはるばるやってきてくれた。数々の献上品をありがとう」

ということで、その感謝の証として「親魏倭王」という称号を卑弥呼に捧げました。

これがかの有名な金印ですね。

 

卑弥呼の使節団の派遣は上手くいっていたようで、両国はとても良好な関係を築けていた感じですね。

 

まとめ

卑弥呼は、やり手の呪術師という感じでしたが、この時代にここまで統率力があり、外交までやってのけた女王はすごいとしかいいようがありませんよね。

これだけやり手の人物で国として発展していたはずなのに、その場所が特定できないことがとても不思議であると感じます。

 

まだまだ卑弥呼に関しては多くの謎に満ちてはいますが、日本にとって卑弥呼の存在というのは、かなり大きなものであったことにはまちがいなさそうです。

 

どうか私たちが生きている間に新しい情報が見つかればいいなと、願うばかりではありますね。

 

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