1576年、夢いっぱいに築城された安土城。
信長ご自慢の安土城がたった6年で跡形も無くなってしまうなんて、誰が予想したことであっただろうか。
1582年、あの本能寺の変後、主郭部が焼失。
当時の様子が十分に語り継がれる間もなく、その役目を終えてしまった。
現在でもその豪華絢爛な天主や城下町は謎に包まれており、再現はされているものの、完全に当時の様子を理解できたわけではないようだ。
滋賀県は「令和の大調査」と称して、城址の発掘調査とともに環境整備も兼ねて、絶賛進行中だという。
2024年1月の調査で新たに見つかったのが、天主台の石垣。
築石の残存状態から見て、これは「破城」が行われたのではないかという見解となった。
「破城」という概念は戦国期に多く行われており、日本各地で破却行為がされていた。
後々江戸時代に一国一城令などによる、居城の確定をするために破却することもあったが、
戦国時代においては、焦土作戦を目的とした城の破壊がよく行われていたという。
川中島の戦いなどでも、和平条件の一つとして差し出されていたこともあり、見た目にもショックが大きい心理的作戦とも取れる。
破城はその名の通り、建物を解体したり、埋め立てたり、撤去や一部の破壊行為をするもの。
見た目にその象徴を破壊するということだけあって、メンタルにダメージが与えられることは間違い無いだろう。
その後島原の乱をきっかけに一揆などでの立て篭もりを防ぐ目的でも、破城は行われている。
つまり、信長の象徴であった、天主閣が完全に崩れ去ったことを多くの人の目から見て印象付けることが大事であったのかもしれない。
あの見事な天主が崩れるということは、完全に信長の権力が消えてしまったということを指す。
そして残っていた築石(石垣を築くときに用いる石のこと)が綺麗に水平に揃っており、その破壊された時期が、豊臣政権下であったことも注目されるところだ。
信長の政権が終了し、豊臣秀吉の実力が上回ってきたんだという、政権交代、新しい時代がやってきたんだ、という見せしめとも言える。
まだまだ安土城の規模がどれほどであったのかは不明点もあるが、今回の調査では、礎石8ヶ所、礎石を抜き取った跡が3ヶ所発見されたということから、ここからさらに建物がいくつかあったことが予想されるという。
建物の用途やその規模もわからないというものの、重要な役割を果たしていた機関かもしれないし、安土城の役割や焼失後の様子など、これからの調査の手がかりとも言える発見があった。
幻の名城と言われる安土城。
天下人であった信長の野望を引き継いだ形となった秀吉は、この安土城をどう眺めていたのか。
これからの発掘調査に期待しかない。