安土城に魅了されて早20年以上(笑)
今やこの安土城跡といえば、階段や石垣、山の上に天主がそびえていたであろう形跡、武将達が住んでいた住居跡…
とにかく建物らしいものはなく、未だに謎に包まれた分からないことがたくさんあるこの安土城ですが、
他の城にはない独特な世界観に魅力を感じます。
壮大な時を超えて、信長の安土城に対する熱い思いはどのようなものだったのか。
今回は安土城の全貌に迫る消えた屏風についてのお話です。
安土山屏風とは
安土山図屏風というのは、狩野永徳が描いたとされる、当時の城下町や安土城の様子が描かれた屏風のこと。
高さ約6尺、横幅が約12〜15尺ほどある屏風には、安土山の全貌と都市の様子、山の上にそびえ立つ大きな建築物が描かれていたと言われており、信長ご自慢の安土城はしっかりと絵師の手により残されていました。
しかしそんな信長の野望がつまった安土城は、壮大なスケールを誇っていたにも関わらず、1579年に完成したのち、本能寺の変直後、1582年には焼失してしまうというなんとも短く、悲しい結末を辿っています。
グレゴリオ13世のもとへ
信長の命により描かれたこの屏風は、ローマ教皇グレゴリオ13世に献上するため、天正遣欧使節に託され、海外へと渡りました。
しかしその後、1592年まではバチカン宮殿の「地図の回廊」にあったと確認されていたのですが、現在は消息不明。
(教皇の移住空間に近かった、「世界地図の間」にあったとも言われている。)
宣教師の記録から、安土の全体像がよくわかるものとして、とても信憑世が高く、ローマ教皇にまで献上されている代物です。
この屏風が今一度発見されたら、とにかく謎の多いこの安土城の全貌がわかるのではないかと、注目されています。
今も続く現地調査
これまでに幾度ともなく探索、調査を行なっていますが、なかなか発見までに至る事なく、今もなお調査は続けられています。
バチカン市内や博物館、イエズス会やグレゴリオ一族関係の人に至るまで、さまざまな観点から調査できるよう、国に要請、派遣などもされています。
もしこの屏風が発見されたら、城下町や建築だけでなく、信長の政治力や生き方、とにかく全ての真に迫る大発見につながる事間違いありません。
信長の独特の世界観は他の武将にはない、新しい思想、思考
そのものだったと思います。
武将という一面、宗教改革者という一面、政治家でもあり、とにかくたくさんの顔をもつ信長という人の思いが詰まったこの安土という地。
狩野氏が描いた作品ということで、美術的観点からも注目されている、「安土山図屏風」
是非ともこの目で、信長の描いた夢を見てみたいと思っています。