邪馬台国はどこにあったのか。
歴史好きな私は、幼い時からずーっとその謎がいつ解けるのかと心持ちにしていました。そして2023年ついにその謎が解き明かされようとしていたのです。
古くは江戸時代から論争されてきたとされる邪馬台国はどこにあったのか説。その場所の特定ができないまま今日に至っているというわけです。
魏志倭人伝によると、2世紀から3世紀にかけて「邪馬台国」という国が日本に存在していて、その国を収めていたとされる女王卑弥呼が魏に使いを送り、「親魏倭王」という称号と、金印、銅鏡などが贈られたという記述があったといいます。
これにより、どうやら2世紀終わり頃から3世紀にかけて、卑弥呼が国を治めていたということがわかります。
卑弥呼が亡くなったあと、その同族である壱与が後を引き継ぎ、洛陽(魏の後)に遣いを送ったのを最後に、中国の歴史書から姿を消してしまっているのですね。
日本は日本で、大和政権が奈良で発展していき、豪族や有力者によって支配されていきます。大規模な古墳や政治の中心が奈良にあったことから、邪馬台国も近畿にあったのではないかとされているということです。
ここで論争となっているのが、九州説と畿内説です。そして今回注目すべき点が、佐賀県にある吉野ヶ里遺跡で発見された石棺なんですよね。
そもそもこの吉野ヶ里遺跡は、大環濠集落。つまりとても大きな集落の跡地なんですね。その規模は国内最大級とも呼ばれています。これだけの大きさを誇るということは、それなりの統治者がいてもおかしくないですからね。
この遺跡は1986年から本格的に調査が始まり、その年代は弥生時代ではないかと推測されています。遺跡からは銅剣や管玉、甕棺墓も発掘されていているにも関わらず、肝心の有力者の墓が見つかっていなかったのです。
これまで、神社があり調査できなかったエリアを、神社が移転したため調査できるようになり、謎のエリアとされていたこの場所で、石棺墓が発見されたというわけです。
これまで、この遺跡には18基の石棺墓が発見されていたのですが、ここまで規模が大きいものは初めて。
ようやく有力者の墓発見か?もしかしたら時代的に卑弥呼なのでは?という期待がかなり高まったのです。
もしこの墓が卑弥呼であったとするならば、それは邪馬台国が九州にあったという証拠の裏付けとなるもの。まさに歴史の謎が解ける瞬間
だったのです。
そして運命の石棺墓がオープンされ、出てきたものは‥
「からっぽ」
遺骨も副葬品も入っておらず、まさにからっぽだったのです。
しかしながら、赤色顔料が塗られている痕跡が見つかったことから内部全体が朱色であったことがわかり、これはこれで実はとっても意味のある発見だったと言えます。
なぜかというと、そのキーワードとも言えるのが「朱」なのです。魏志倭人伝の中にも「日本の山には丹(朱)あり」「朱丹を以てその体に塗る」と表現されている。九州では「朱」がとても多く産出される地域であり、魔除けとしても使われていたといいます。
「朱」が魏にも輸出されていたと考えると、どんどん邪馬台国との距離が縮まってきたかのように思いませんか?
ここまで考えてみると断然九州説がリードしているかのように思いますが、そう簡単にはいかないんですよね。
そう、実は畿内説で有力な奈良県桜井市の纏向遺跡。この辺りにも朱の産地があったのですよ。纏向遺跡内の箸墓古墳は現在最も有力な卑弥呼の墓ではないかと言われている場所。歴史の教科書などで、一度は見たことあるかも知れませんが、あの鍵穴のような古墳です。
かと言って箸墓古墳に大量の朱色があるかどうかはわからないんですよね。なんせ箸墓古墳は宮内庁管理下なので、調査が容易にできる感じではないんですよね。
結局朱色の顔料というキーワードだけでは断定はできないのかも知れませんが、卑弥呼所在地の謎が少しずつ進んでいる気がします。
謎だらけの邪馬台国。解明される時が来るのか。もう期待しかありませんよね。