「大化の改新」って言葉はよく聞くけど、どんなことをしたの?
新しい国家体制をつくろうと、いろいろな試みをしたんだよ。人々の暮らしをまとめることはできたのかな?
大化の改新とは。まずはここがポイント!
では大化の改新について簡単にわかりやすく見ていきましょう!
きっかけは乙巳の変
そもそもは、天皇以上に権力を振るっていた蘇我氏の存在にありました。
大臣として権力をもっていた蘇我蝦夷。
子である入鹿に大臣の座を譲った後、入鹿の手によって、聖徳太子の息子である山背大兄皇子が滅ぼされたのです。
しかしその後の645年、中大兄皇子と中臣鎌足らによって蘇我氏親子は滅ぼされることとなりました。当時権力をふるっていた豪族の蘇我氏。ここで時代は一変します。
この一連の事件のことを「乙巳の変」といいます。
この乙巳の変後、彼らによってなされた政治改革が「大化の改新」だったのです。
どのような政治が行われたのか
蘇我氏を排除し、中大兄皇子は国の体制を変えるべく、軽皇子、孝徳天皇を即位させて、自らが政治の実権を握りました。
ここで目指した改革が、646年の正月に制定された「改新の詔」になります。
大きく分けて4つありますので、ひとつずつ見ていきましょう。
公地公民制
一つ目は公地公民。つまり土地制度の整理です。
国(朝廷)が直接管理し、個別の所有を禁止する法令でした。
これまで豪族が所有してきた土地も国所有のものとし、この方針は、律令国家の基礎となったのです。
地方制度
国をしっかりと口分して把握するために、国郡制度を設けました。
なんとなくざっくりした感じはありますが、国•郡•里として単位を分けたのです。
里→50戸
群→2〜20里(100戸〜1000戸)
国→数郡
数としてはこんな感じですね。それぞれの仕組みとしては、
里には現地の村の有力者「里長」
郡には現地の有力豪族「郡司」
国には中央から派遣された「国司」
が任命されていたのです。
班田収授法
公地公民制で見直された土地は、改めて口分田として6歳以上の男女に与えられました。
6年に一度実施される戸籍によって、班田されたのです。
6年に一度なので、生まれたタイミングによっては、かなりの損得がありましたが‥この土地の分配により、農民の生活の保障、税金対策もとられることとなりました。
税制
最後の4つ目は統一的な税制度、租調庸です。
簡単におさらいすると、
①租は田地に課される税金のこと
②調は各国の特産物、例えば絹や糸、綿、鉄‥など34種
③庸は自分自身。労働力としての提供。または布を納める
特に調や庸は朝廷に納められ、中央の財源として当てられたのです。
大化の改新の目的とは
この時代の法や建物、生活に至るまで、ほぼ中国、当時の唐にならったものでありました。
平安京なども唐の長安にならった配置、建物でしたし、今回の法体制、均田制、税制度も、唐のやり方をもとにしたものでありました。
つまり大化の改新とは、この唐の律令制をもとにした、「天皇中心の中央集権国家」を確立したかった。
ということなんですね。
まとめると
豪族であった蘇我氏を排除したのち、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原鎌足)により、国家の改革は行われました。
根底にあるのは、天皇を中心とした中央集権国家を作ること。
ここを目指して、唐のやり方をもとに大化の改新として、政治改革を進めたのですね。