鎖国を行なった理由、その目的とは。
結論から言うと、「幕藩体制」を強化したかったからということです。
幕藩体制を強化。つまり、キリスト教を徹底的に排除して、土地や人民を幕府が支配するため、他国からの侵略の懸念もあり、鎖国が必要になったのです。
それではキリスト教が広がるにつれて、国内に与えた影響はどのようなものだったのか、順を追って考えていきましょう!
家康の外交政策
江戸時代徳川家康は、外交政策について、秀吉時代のやり方を継承する形で平和的に行おうとしていました。
基本的にはポルトガルだけの貿易関係をやめ、他の国(明や朝鮮)との貿易も進めたかったことが理由にありました。
主に貿易は、平和と通商を目的に外交政策として進められていたので、キリシタンが増えてきているのが分かっていたものの、黙認する形で貿易はすすめられたのです。
キリシタンの増加
貿易を進めるにあたって、キリスト教徒の増加はある程度仕方がないこととして見逃されてきました。
室町末期〜江戸時代初期にかけて、フランシスコ・ザビエルやヴァリニャーニなどの所属していてた、カトリック教団イエズス会による布教や、日本での布教により、その数はみるみる間に増加傾向にありました。
1610年頃には、その数なんと、70万人を越すようになっていたのです。
ポルトガルやオランダとも貿易をはじめたこともあり、キリシタンはさらに増加。国土への侵入などで侵略への懸念が出てきたのです。
貿易の制限と禁教令
キリシタンの増加で、貿易を制限せざるを得なくなってきた幕府は、まず無制限におこなわれていたオランダとイギリスとの貿易の窓口を、長崎・平戸の2港に制限。長崎奉行の管理下に置きました。
1613年には、家康が外交担当である金地院崇伝に命じ、全国に禁教令を出しました。
この金地院崇伝の書いた『異国日記』によると、
・そもそも日本は元来神国である
・勝手に邪悪な教え(キリスト教)を広め、神仏を惑わし、日本の政治を改め、自分の領土としてしまおうとしている。
・まさに新道の敵、仏法の敵
・急いで禁じなければ、後に必ず国家の禍となる
と言っており、まさに儒教的な思想が強くあったと思われます。
鎖国令
そしてついに幕府は禁教を目的とした、日本人の海外への往来と、ポルトガル人の介入を阻止するため、数年に渡って5回もの鎖国令を出しています。
5回にわたる鎖国令
①1633年(寛永10)鎖国令
・奉書船以外の日本船の海外渡航の禁止
・海外在住5年以上の日本人の帰国の禁止
②1634年(寛永11年)
①とほぼ同じ。少し修正を加えられただけ
③1635年(寛永12年)
・日本人の海外渡航禁止と帰国の禁止
・中国船も長崎のみの入港
④1636年(寛永13年)
・長崎に出島を築く。ポルトガル人を出島に移住させて、日本人との交流を避ける。
⑤1639年(寛永16年)
・ポルトガル船全面禁止
この5回目で最後の鎖国令となりました。
1641年にはオランダ商館も出島に移し、貿易の窓口も長崎だけにまとめ、輸入の制限もおこなったのです。
島原の乱
そんな大々的な鎖国制限の中、日本のキリシタンによる大規模な一揆が起こりました。それが島原の乱です。
島原の乱は詳しくはこちらの記事で紹介していますが、
若きキリシタンのエース、天草四郎が中心となり、起こりました。
その理由は、
・過酷な年貢徴収による重税の反対
・禁教に対する幕府への反抗
といったものでしたが、キリシタンによる集団一揆ということで、宗教一揆のような様相であったのです。
この大規模一揆は、キリスト教徒の反抗であったので、鎖国政策の強化や、弾圧が理由付けされ、なお一層の厳しさを増したのです。
キリシタンの取り締まり
キリスト教徒を取り締まるにあたって、いくつかの方法がとられました。
・五人組を利用した監視体制
・踏み絵や関所での通行人の取り締まりの強化
・宗門請手形を寺院に提出させる
と言った内容でした。
特にキリスト、マリア像を踏ませるといった踏み絵は有名ですが、寺請制度と呼ばれる、民衆を檀家として所属させてキリシタンではないと証明させるという制度が注目です。
国民それぞれが寺の檀家であることを証明するため、宗門改をおいて一人一人の宗教を調べたのです。もちろんそれはキリシタンではないという証明を得ることが必要だったからです。
1664年(寛文4年)の頃には、宗門改帳全国的に実施し、家族単位で把握させ、帳簿として管理されたのです。
幕藩体制の完成
こうしてキリスト教の徹底排除により、鎖国は完成しました。
政治基盤を固めるために行なった政策でしたが、江戸時代は将軍や諸大名の強い支配権下のもとに、身分制度や統率の取れた体制を整えたかったのです。
そして1854年、ペリー来航による開国まで鎖国は続き、幕府による政治体制は維持されたのでした。