こんにちは。lalaです。
今回は江戸時代三大改革のラスト。
「天保の改革」についてです。
「天保の改革」とは、12代将軍徳川家慶の時、老中水野忠邦がおこなった改革です。
天保の改革のポイントは
がメインとなってきます。
幕府が打ち出した対策として、
①株仲間の解散
②人返しの方による帰農令
③上知令で領地の整理
などで改革を試みようとしました。
ではそれぞれの改革の内容を追っていきましょう!
天保の飢饉と大塩平八郎の乱
1833年から36年にかけての飢饉はとても深刻な状況となっていました。全国に及んだ連続した凶作により、農民の餓死が相次いだのです。
飢饉によるダメージは、農民を苦しめただけではなく、幕府の財政も圧迫させました。
しかし幕府はこのような情勢にもかかわらず、農民への充分な救済措置が取れず、都市の商人が儲かるようなシステムばかりを生み出していたのです。
都合のいい触れ書きが幾度も出され、凶作続きでもあったので米価もどんどん上がり、都市の下層民たちは耐えられない状態になっていました。
そこで、元大坂町奉行の与力であった大塩平八郎は、この幕府の対策に不満を持ち、乱を起こす事となったのです。
「もう世直しなしでは、解決できる問題じゃない!」
町奉行所の元与力の反乱だけあって、そのインパクトは強く、農民や下層民、みんなの力で幕府への不満をぶつけたのです。
乱自体は半日で鎮圧されてしまいましたが、この乱をきっかけとして、水野忠邦は今後の政治の見直しや、今ある情勢がよくないことなど、将軍家慶に意見書として述べており、改革が必要であることを再認識させられたのです。
天保の改革
こうして飢饉、大塩平八郎の乱後、本格的に改革は実施されていくことになりました。
この頃、物価の高騰により、都市や幕府の財政は破綻寸前となっていました。もはやちょっとやそっとの改革では景気回復できそうな感じでもありません。
そこでこの天保の改革では、前例にあった享保・寛政の改革にならい、都市改革をおこなっていくことになりました。
株仲間の解散
1841年(天保12年)まず物価高騰に対する策として、株仲間解散令が出されました。
この対策のねらいとしては、物資の流入と、物価の引き下げでありました。
そもそも株仲間は商人に独占販売権を認め、商品の流れを株仲間に一任させていたわけで、ここの買い占めをなくさせ、江戸に物資が流れれば解決するのではないか。という目論見があったのです。
そのため、菱垣廻船積問屋・十組問屋などに株仲間解散の命令を出し、商品の独占をやめさせました。
幕府の管理下の元、新興商人を置いて、販売ルートを確保しようともしていたのですが、すでに街中では、幕府の思っていたルートを通らずに商品は流通していたのです。
幕府のねらい通りにはいかず、対策としては失敗に終わり、のち、株仲間も復活することとなります。
人返しの法
1843年(天保14年)都市の財政は圧迫され、それと同時に都市の人口も急激に増えてきていたのです。
やはり田畑を耕す農民がいてこそ、年貢や生産の面でも潤うわけですから、都市人口が増え、地方の田畑が荒廃していくと、バランスがどんどん崩れていってしまいます。
そこで、幕府がとった帰農令が人返しの法だったのです。
強制的に、とりあえず地元に帰りなさいという法令だったのですが、帰ったところで、特に何かしてもらえるわけでも援助してもらえるわけでもなかったので、これといった有効性がないまま、成果は出ませんでした。
上知令
1843年(天保14年)に出された上知令は、全国各地にある大名の飛地などを一度整理し、まとめるというものでした。
まとめるといっても、実際は、手持ちの年貢率の高い私領を天領として回収されたため、大名や旗本にとってはなんとも厳しい法令でした。
いつの間にやら、年貢率の高い土地が天領として確保されておらず、収穫率の低い痩せた土地のものが多かったのです。
そこで一度、江戸や大坂周辺にある領地を返上させ、代知を与えるというものでした。
代知といっても、年貢課税率が3割5分を超えないくらいの土地を与えるといったものだったので、そのような土地を、はいどうぞと、交換するのは簡単なものではありません。
幕府だけでなく、大名たちも財政に困っていたので、難しい限りです。農民たちもこの一連の法令に反対し、同年、上知令は廃止され、その六日後、ついに老中水野忠邦は失脚することになったのです。
まとめ
こうして江戸時代の三大改革3つ目の天保の改革は終わりを告げました。
大飢饉から始まり、常に財政難との隣り合わせだった江戸時代。
大名との関係や、不満の募る農村による一揆や打ちこわしなど、良い情勢に持っていくことは簡単ではありませんでした。
そんな中、天保の改革にある程度成功していた藩がありました。
それが薩摩・長州藩でした。
武士側、農民側の意見を取り入れたり、商品経済の面でも打開策を打って出るなど、中央より、柔軟な対応をしていたのです。
藩の財政の再建や、農政・軍事面などのあらゆる改善が功を奏し、以後中央進出への新たなきっかけとなったのでした。