こんにちは。lalaです。
今回のテーマは「寛政の改革」についてお伝えしたいと思います。
寛政の改革といえば、江戸時代田沼意次により乱れた財政を復興すべく、行われた改革の一つです。
時の将軍徳川家斉の時に行われ、老中松平定信が中心になってまとめられました。
寛政の改革のポイントとしては、
といったもので、いずれも主に財政への対策と言えますね。
それでは、財政回復、そして農村の復興を目指した寛政の改革。
一つずつ見ていきましょう!
田沼期からのつけ
以前こちらの記事でも取り上げましたが、田沼意次による政策は主に商業統制や経済回復、そして農村の復興といったものを目指しており、これまでにない思い切った対策を打ち出していました。
結果的には、田沼への賄賂が横行し、農村も疲弊することになり、百姓一揆や打ちこわしが頻発するという、ねらい通りの政治にはなりませんでした。
政策は中途半端で終わったまま、田沼は失脚。
ここからのスタートになったのです。
農民への出稼ぎの禁止
基本的な財政対策として必要だったこと。それが農民にしっかり自分の土地で働いてもらうことでした。
①社倉・義倉といった倉を設けて、囲い米として貯蓄する
②七分金積み立てで貧民救済をおこなう
③人足寄場で技術者育成と就職
④旧里帰農令により農民を地元へ帰す
囲い米
江戸期は大変飢饉の多い時代でもありました。またあるかもしれない飢饉に備えて、非常用としての米を蓄えるよう幕府からお達しがあったのです。
大体の割合としては、1万石あたり50石で貯蔵をおこないました。
確保した財政で農業資金の貸付や、米価調整の目的でつかわれるなど、いざという時のための、貯蓄がされていたのです。
この制度によって、1843年には幕府として55万石、諸藩では88万石に達し、一応の成果が上がったと言えました。
七分金積み立て
七分金積み立ては、町入用、つまり町費を節減し、削減した7割を町会で積み立て、融資をおこなうというものでした。
幕府もここに2万両補助しています。
そして、低金利での融資をおこない、そこで出た利子を貧民救済に運用したのです。
人足寄場
人足寄場は江戸の石川島に設置され、軽罪者や無宿者などを収容し、職業技術を授け、職に就かせると言うものでした。
その労働に対し賃銭を与え、6年ほど働いたのち、出所。そして実際に本職として働かせたのです。しっかり職業訓練をし、働き手を増やし、社会復帰させたのですね。
旧里帰農令
旧里帰農令は下層町人対策の一つとしておこなわれました。
江戸に滞在する農民に対し、旅費も農具代も出すので、地元に帰りなさいというもので、荒廃していく土地を復興させるという目的があったのです。
そうすることで、江戸で増え続ける下層農民を減らし、都市も整理されて土地も回復するという良い循環になるかと思われたのですが、一度住み着いてしまった都会からは、なんとも抜け出せず、帰らない農民はたくさんいました。
思いの外、実効を上げることが出来なかったのです。
武士への統制
さて、そこで注目されるのが、武士への規制です。
基本としては、規則正しい生活や負債に関しての法律が主となります。
①倹約令で生活の統制
②棄捐令で旗本・御家人の救済措置
倹約令
まず武士に対しては、出版物や風俗関係の規制を強化し、日々質素な暮らしをするようにと、倹約令が出されました。
倹約令に関しては今回の改革だけにとどまらず、享保・寛政・天保の改革でも毎回口を酸っぱくして言われてきました。
急な戦時にも対応できるようにと、普段から倹約を意識し、武士としての道徳を心がけるようにと法令として出されました。
財政難を乗り切るためには、武士の日常から変えなければならなかったのです。
棄捐令
1789年の棄捐令は、割と思い切ったことが行われていて、札差への借金を破棄するというものでした。
旧来の借金は勿論、六ヶ年以前辰年までに借請候金子は、古借・新借の差別なく、棄捐の積里相心得べき事。
御触書天保集成より
この史料の記述によると、6年前以前からの借金は実質破棄され、それ以後の借金は低利での返済をさせるというものでした。
札差にとってはなんとも納得のいかない対策でした。そこまでして旗本・御家人の救済が最優先事項として扱われていたのです。
幕府はこの対策を受け、猿屋町会所を設けて1万両を預け、札差からの申し出があれば、資金融通できるようにしました。
しかしそうすることで、札差=旗本・御家人間でやりとりされていた関係に、幕府が介入できるようになってしまったのです。
朱子学の振興
ここで注目なのが、学問についての統制令「寛政異学の禁」です。
朱子学を正学とし、他の学問を異学とするというものでした。
その狙いは、やはり武士の統制につながるものがあり、聖堂では朱子学を学ばせ、官僚となるものは朱子学によって養成されたのです。
のちに幕府の官立学校として、聖堂は昌平坂学問所となり、教育機関の役割を果たしました。
まとめ
このようにして、財政回復と農村の復興につとめた寛政の改革でしたが、やはり田沼意次の置き土産が大きかったようで、享保の改革の時のような回復には至りませんでした。
それでも一時的に回復はしたものの、やはり武士や農民など各地からの批判は多く、統制はまだまだ先であったのです。