大原女とは、京都の大原にてとれた、薪や農作物を京の町まで行商にきていた女性の事をいいます。
鎌倉時代~昭和初期まで続いており、意外と最近まで存在した女性の行商人であります。
大原女ってどんなものを売り歩いていたの?
特産物を売ったり、その格好にも特徴があったんだ。一緒にみてみよう!
大原女とは
まず気になるのは読み方ですよね。「おおはらめ」「おはらめ」とも読み、漢字に至っては、小原女と書くこともあるようです。
冒頭でも書きましたが、鎌倉時代から昭和初期まで約800年ほど続き、近世では、黒木売りとも呼ばれていました。
黒く蒸し焼いた薪を売ることからその呼び名でも表現されます。
大原女は何を売り歩いていたのか
基本的には大原でとれた特産物が中心で、代表的な地域の特産物というのが、
・木炭
・薪
・農作物
・柴
・山菜
・野菜
・花
時代によって多少の変化はありますが、このようなものが主に売られており、貴重な貨幣取得の方法となりました。
これらはどれも家庭燃料には欠かせないアイテムとなっていたので、売る側も買う側もとても貴重な物資の供給源となっていたのですね。
かわいらしい装束
紺色の着物に赤いたすきをかけており、商品はすべて頭の上にのせていました。
そのいでたちは、数々の書物や壬生狂言の演目でも登場しており、
鎌倉時代の「東北院職人歌合絵巻」や江戸時代後期の「都名所図会」においても、その様子が描かれています。
また、基本的に売り物は頭の上でしたので、まげの上に手ぬぐいをかぶり、その上に物をのせて、京の街までの往復で約20キロはあるかという長距離を歩いています。
もちろん現代のように道がキレイに舗装されていたわけでもなく、山道などもありましたので、それはそれは大変な道のりだったといえます。
しかも販売するものはどれも大きく重さもしっかりとあり、おおよそ30キロ~40キロ。多く運ぶ人は50キロほどもあったといいます。
頭の上にこれだけの大荷物。
生半可ではできません。
白川女と桂女
京都三大祭り(時代祭・葵祭・祇園祭)でもある「時代祭」にも大原女は登場するのですが、他にも女性の商売人である「白川女」「桂女」の存在も忘れてはいけません。
白川女
白川女は、京都の北白川の女性が花を売り歩いていた行商人のことをいいます。
かご(箕)を頭の上にのせて、白川に咲く花を販売していました。
桂女
桂女は京都の桂にて鮎や飴を売り歩いていた女性集団です。
桂包(かつらづつみ)とよばれる白い布を頭に巻き、その上に木桶をのせ、特産物を売っていました。
安定感もあり、手で持ち続けるより頭の上にのせる方が楽(まだまし)ということですね。
またはしごや踏み台を売る「畑の姥」という女性もいました。
毎年秋には京都の寂光院~勝林院まで練り歩く「大原女まつり」も行われています。
もちろん行列に参加することもできますし、着付け体験なんかもされています。(親子でも可)
興味のある方はぜひ体験してみてもいいかもしれませんね。