御成敗式目ってどんな法律だったの?
武士だけに通用した基本の法律だよ!51箇条あって、鎌倉時代に作られたんだ。
さて、その武士の基本法となった御成敗式目。これまで基本となる法律がなく、裁判やルールが曖昧だったこともあり、この法律が作られました。紛争にともなう訴訟も多く、公平に判断する必要があったのですね。
御成敗式目とは何か
それでは、御成敗式目とはどのようなものだったのでしょうか。
1232(貞永元)年、執権北条泰時が定めた、武士のために作られた法律です。貞永式目とも言いました。
日本で最初の武家法だったので、公家や荘園領主といった人々には効力を持たず、武士オンリーの法律です。その内容は51箇条にも及び、武家社会で生きていくための約束や、源頼朝の先例に従って決められました。
北条氏の行った政治
このころ政権を握り政治を行っていたのは北条一族でありました。
北条一族が行った政治は執権政治と呼ばれるもので、1203年北条時政が始めました。
そもそも執権とは、院政期に院司の別当という意味で使われていましたが、政所・侍所の別当もしていた北条氏の地位そのものを表すようになったのです。
その北条氏が行った政治だったので、執権政治と呼ばれました。
この執権政治は北条氏の世襲制となり、特に北条泰時・時頼の時に安定した政治となったのです。
そして北条泰時の政治対策として、連署・評定衆といった体制がありました。
こうした時代背景の中、しっかりとした武家法を決め、基準となる法律を定めることとなったのです。
五十一箇条の内容とは
よくよく見てみると、その内容とは
御家人の所領・相続についての基準 22条
刑罰裁判について 12条
そして守護地頭の役割について 4条
といった内容でした。
その中でも注目されたのが、第三条の守護について、そして第五条の地頭についてです。
守護の任務
第三条の守護についてでは、その任務をもう一度見直すべく、その職務について触れています。
・守護の仕事は大番催促と謀反人の取り締まり。
・税金の徴収はしない
・国務に介入してはいけない
ということでありました。そもそも守護の仕事とは、鎌倉幕府下での軍事、警察のような働きをするもので、守護の権限である大犯三ヶ条によるものでした。
中には、御家人でもないのに御家人だ!と名乗ったりするものの取り締まり。守護がこれらのルールに背いた場合は代わりを立てるなど、細かな規定をつくったのです。
地頭について
第五条には地頭のルールについて書かれています。
承久の乱後、全国に広まりました。地頭の主な仕事は
といったものでした。
守護と同じくして、それ以外の仕事をしたり、規定にそむいた行いをした場合には、罷免したりと、罰を与えられました。
ここでもしっかりと地頭の仕事として線引きがされていたのです。
女子についての財産問題
51箇条のうち5条は、女子についての問題が書かれていました。
自分の財産を養子に譲予したり、親の都合によって再度返却させることができる悔返しの権などを認めました。
この武家法をもって、親の権利の強さを認識させたのです。
御成敗式目まとめ
こうして日本で初めて武家法として成立した御成敗式目。
武家の道理や頼朝の先例に従って、さまざまなルールが決められました。
朝廷には公家法・荘園領主には本所法が採用されたので、武士専用の法律であったのです。
武家の基本方針ができたところで、武士の在り方として、このあと続く室町・江戸時代に大きく影響を与えていくことになったのですね。