士農工商ってよく教科書に出てくるけど、実際どんな制度だったの?
江戸時代の身分制度のことだよ!ざっくり四つの身分にわけて、支配体制を整えるのに分かりやすくしたんだ。
それぞれどんな人が、どの身分にわけられるのか、一緒に考えていこう!
士農工商とは何か
四つの身分と割合
大きく分けると、武士・農民・職人・商人の四種類に分類されます。
武士は全体の7%、農民は85%、職人と商人で5%くらいの割合で存在していました。
武士…お役人さんや征夷大将軍、足軽やその家族も含まれます。
農民…田畑を耕すお百姓さんから、村役人と言われる村制にあたる人まですべて農民
職人・商人…手工業者でまとめて町人ともよばれる。
さらにはこの下の身分としてえた・ひにんとよばれる、被差別民も存在しました。
また公家・僧侶・神官などはこの士農工商には含まれません。
なぜ身分分けが必要であったのか
分かりやすい理由としては、「税金の取り立てを分かりやすくしたかったため」です。
武士であればお勤めですね。自分がお役人などとして勤めにでること。農民であれば育てた農作物を年貢として納めます。
農民以外の町民は職人さんや商人というだけあって、営業税としてお金でおさめる「運上金」や、商工業者の営業免許税である「冥加金」などがありました。
特に冥加金は、個人として納めるものと、株仲間で納めるものの、2種類がありました。
それぞれの身分の違いとは
士農工商は1つ1つの身分の中でも細分化されます。どのような内容だったのでしょうか。
武士
武士階級の始まり
武士という階級が生まれたのは、そもそも源平合戦の後、官僚のほとんどが武士だったことにあります。そのころは武士といえど、領地を所有し、農業をするものも多かったといいます。
必要な時は戦いに参加し、それ以外は農業をする。そんなスタイルの武士が多かったのです。そんな武家政権下で存在した武士は、戦国時代に変化していきます。
兵農分離の政策によって「武士」と「農民」を完全に分けたのです。
農民による一揆を未然に防ぐため、刀狩りも行い体制は万全。武士はこれからの封建的支配者として、息づくことになりました。
武士の特権
武士は将軍、大名以外に侍・徒・中間に分けられます。
・侍 旗本など。御目見以上。
・徒(かち) 御家人のうち中間以外。藩では足軽なども。御目見以下
苗字帯刀は◯
・中間 雑役に服したもの。苗字帯刀は×
また、武士にはさまざまな特権もありました。
それが「苗字帯刀」や「切捨御免」といわれるものです。
苗字帯刀は公式に苗字を堂々と名乗る事ができ、刀を腰に所有する事を許されました。
一方の切捨御免は、町人や農民に無礼を受けた場合、その場で切捨てても処罰を受けないという、とんでもなく意味のわからない制度でした。
明治維新以後はこの制度は廃止となり、苗字は現在と同じくして普通に名乗る事ができますし、帯刀ももちろん禁止となりました。
農民
ほとんどの人々が属するのがこの農民です。
農民にも、それぞれの役割として、役職のような体制がとられていました。
郡司、代官の指示のもと、村政治をおこなっていたのが「村役人」と呼ばれる農民でした。村役人のトップは「大庄屋」。複数の名主を指揮し、しかも武士のように、苗字帯刀も許される。同じ農民のくくりとは思えない位置です。
そして村方三役とは名主・組頭・百姓代がそれにあたります。
・名主 村の主であり、関東では名主、関西では庄屋、東北では肝煎と呼ばれる。年貢の割当を決めたり、村の自治を担当した。
・組頭 名主の補佐。1つの村に数名おかれる。
・百姓代 1つの村に2〜3名くらいいる、村民の代表。
この村方三役を中心として、村の自治が統制されていましたが、もちろんそれらは百姓ら自作農がいたから成り立っていたのです。
百姓にも地主である本百姓、田畑を持たない小作農、名主の隷属農民である名子などがいました。
・本百姓 地主。検知帳に登録されている、自作農。農村の主要。
・水呑百姓 検知帳に登録されていない。田畑も持たず、小作農として働く。
町人
そして最後に工商にあたる都市に住む商工業者、町民についてです。
全体としては少ない人数であるのですが、あんがい規制も少なく、手工業者、職人としての役割を果たしていました。
ここでの町政は、町奉行によって選ばれた町役人によって行われていました。
町人にはまた違った足役が課されており、
・上下水道の整備
・町の防火
・城郭、堀の清掃
・もしくは代銭納
などがありました。
町奉行は
町年寄・町名主・月行事
に分かれており、さらに町人は、
家持(いえもち)・家守・地借・店借(たながり)
に分類され、正規の町人として認められたのが、家持・家守でありました。
理由としては、地子、課役を負担していたからです。
こうして町人は、農民より身分が低いものとされていたのですが、商業の発展と共に、徐々に力をつけていき、経済力も上がりました。そのため、実際は農民よりも上の地位に位置するようになっていったのです。
封建的身分制度は複雑だった
封建的支配者であった武士。後の農・工・商は庶民階級としてくくられたのですが、実際は、もっと細分化された6つの階級として認識されていたのです。それが
公家
武家
僧尼
神官
平民(百姓・町民)
賎民
でありました。
封建制度は君主から土地を与えられた見返りに、君主に忠誠を誓うという意味合いでありますが、身分を分ける事により、それをはっきりさせようとする目的もありました。
税金もしっかりとりたいんでね。
士農工商は果たして身分制度だけの意味あいだったのか
ここまでは昔習ってきた、士農工商の考え方でありましたが、近年の研究により、士農工商は身分制度という認識ではなく、それぞれの職分であったのでは、という考え方があったのではないかといわれています。
確かに、それぞれの身分の中でもかなり細分化されて構成されており、一つの職業として成り立っている上に、そんなに変わらない位置づけであったように思います。
農民ですら、武士の特権とされている、苗字帯刀を許されている有力者も存在したのですから。
それぞれの職業にそれぞれのトップがいる。
えた・ひにんとよばれる被差別民はいたものの、他は職業が違うという認識だけではなかったかのようにも思えます。
しかしながら、こういった身分というか職分することにより、封建社会としてまとめたことに変わりはないようです。